終章 15 バンクーバー

 優子の話は、桐花の誕生の核心に入って行く。


 祐司は、生前の年末年始の休暇時に、葬ったデータを、錦城が復元したかもしれない、と漏らしていた。ややノイローゼ気味であり、優子も案じていた。


 優子が妊娠を告げると、我が子のためにも、自身の研究成果は葬りたい、と話していた。父親が悪魔の薬の発案者であると、苛めの対象にされると怯えていた。


 近い将来、祐司の考案した物質が、新薬として市場に出たと仮定する。一時的に、精神疾患が快方に向かっても、数ヵ月のうちに、狂暴性や神経の昂りなどの副作用が出てくる。最悪の場合、突発的に自殺したり、他者を殺めたりといった危険行為も出る。


 考案者は、法的に罰せられないかもしれない。だが、服用した者は不幸に見舞われるので、間接的な無差別殺人を犯したに等しい、と祐司は考えていた。


 世に出てからでは、仮に法的に罰せられても、被害者への罪は償えない。家族の将来も、台無しだ。温厚な両親の元で育った祐司は、元来、心根が優しく、野心もなかった。数年間、探求した研究課題も、危険だと承知すると、固執せず、潔く手放す判断力もあった。


 優子も一時は、燃え滾る錦城への恨みに、悩まされた。だが、産まれて来る子供を、守りたかった。


 一九九五年の二月に入ると、優子は、芦屋医大の勤務を休職した。


 周りの者は、「夫を亡くしたショック」だと解釈し、優子の妊娠も知られなかった。両親と折り合いの悪かった優子は、両親にも妊娠の報告をせずに、日本を離れた。


 だが、祐司の実家への報告は、後ろめたさが残った。祐司の実家は、宝塚市内の小児科医院だ。祐司の死を悼む暇もなく、震災後の患者受け入れで、多忙を極めていた。そのため、優子は、妊娠の事実を知らせなかった。


 二月の休職から、七月の渡米までの期間、優子はバンクーバーの語学学校に通っていた。


 舞は、荒垣から見せてもらった、優子の渡米時の報告書を思い返した。そこには書かれていない、新たな優子の足取りだった。


 カナダは、シングル・マザーに対しての施策が進んでおり、妊婦も就学しやすい。優子は、カリキュラムが厳しい語学学校に、五ヶ月ほど通った。母国語禁止で、常に課題に追われていたため、日本での辛い過去を思い出さなくて済んだ。


 辛嶋とは、日本を離れた後も、連絡を取っていた。むろん、妊娠の事実は知らせていない。当時は、パソコン通信から、ウィンドウズ95の登場で、世界的にインターネットが普及し始めたころだ。辛嶋は、時折り、Eメールで芦屋医大の様子を知らせて来た。


 五月中旬に届いた、辛嶋からのメールに、錦城の近況が書かれていた。錦城が、新たな研究に乗り出し、教授会に認められた事実。それと同時に、根の葉もない噂が、飛び交っている事実も。噂の内容の一つに、「亡くなった仁川君の研究か?」と、あった。錦城の研究課題の概要は、祐司の話していた内容と合致する。


 辛嶋には、「覚えがない」と返信した。だが、優子は、恐れていた事態に覚悟を決めた。


 まだ五月の時点では、智代にも妊娠の事実を知らせていなかった。智代は、当時、夫の転勤でマンハッタンに在住していた。智代からは、結婚三年目で、ようやく妊娠したと、報告を受けていた。


 優子は、この時点で、自身の子を、佐伯家で預かってもらえるよう、計画していた。子供が成長すれば、事実を話す。だが、幼少の時期は、養女として、仁川姓を名乗らないほうが良い、と考えた。


 錦城は、亡き部下の研究を横取りして、北叟笑んでいる。だが、新薬の開発に成功しても、副作用が明るみに出たと仮定する。その場合、平気で祐司の遺志を引き継いだと、嘘の報告を公表するのが、目に見えている。当時の優子は、「我が子を守る」術が、他に思い当たらなかった。考えが浅かったと、現在の優子は、後悔している。


 当初、優子は、半年間のバンクーバー滞在を予定していた。だが、六月下旬、智代の夫の隆介から、死産の連絡を受けた。そこから、歯車が狂い始めた。

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