終章 13 教えを乞う時間は、もう僅か

 喜多川は、昨日の夕方と同じ、ライト・グレーのパンツ・スーツ姿だった。にこやかな笑顔で、舞のベッドに近付く。


「帰り際に仰っていた、マウンテン・バイクのパンクが、気になりましてね。すぐに芦屋医大の警備室に連絡して、職員用駐輪場の防犯カメラの映像データをチェックさせていただきました。容疑者は、防犯カメラの存在を知らなかったようですね」


 喜多川が、言葉を切ると、真剣な面持ちで続けた。


「映像から、該当する女性の姿が確認できました。宇田川さんのお話から、現在の居場所も判明しそうです」


 舞は、再び拍子抜けした気分になった。先ほど、夜間の見回りだと思った微かな物音は、喜多川だったのだ。


「夜通し、廊下で待機されていたのですか?」


「慣れていますから。警備室の警察OBに連絡して、仁川先生にご協力いただきました。宇田川さんの意識が戻ると、ご自身の考察を仁川先生に話す、と予測したので」


 舞は、そっと壁際のコンセントを見た。盗聴器が仕掛けられていたのだ。先ほどの荒垣からのメッセージでは、舞の様子を承知していた。荒垣も当直部屋で、舞と優子の会話を聞いていたのだろう。舞は、喜多川の顔を見た。


「北島さんの現在の居場所は、角倉先生のご自宅付近なのですね?」


 喜多川は、意味深な笑みを浮かべる。


「以前、宇田川さんから、大学院での研究テーマをお聞きしましたね。自暴自棄な行動は、興奮神経の作用だ、と」


「ええ。北島さんは、焦燥感を抑えるために、何らかの精神安定剤を服用していると思われます。恐らく、新薬の《モーニスコプラ》でしょう。副作用で、攻撃性が高まっているかもしれません」


「防犯カメラの映像を見ながら、昨夕、宇田川さんを無理にでも、ご実家までお送りすれば良かったと、後悔しました。宇田川さんの後を追うと、遠目に汎用輸送車とストレッチャーが見えました。汎用輸送車は救急車ではなかったので、野次馬の姿はありませんでした。ですが、現場から二十㍍ほど左にある電信柱の傍に、長身の女性が確認できました。偶然、通りかかった通行人とは、明らかに様子が違いました。汎用輸送車が走り去ると、女性は、そのまま左に走り去りました。阪急電鉄の夙川駅方面です」


舞は、瞬時に海外の無差別殺傷事件の犯人の行動パターンを思い返した。


「一般に、薬の副作用の影響で殺気立っていたら、人の集まる場所に行くのは危険です。ですが、容疑者の行動は計画性があるので、無差別殺傷のリスクは少ないと思います」


 何度も首肯すると、喜多川が続ける。


「宇田川さんの興奮神経のお話が、次の犯人の行動予測に役立ちましたよ」


 その後の警察の動きは、話せないのだろう。


 舞は、人差し指を立て、何度か上下させながら、話を続けた。


「犯罪が起こると、犯人の心理状態が重視されますよね。ですが、その前に何故、理性が働かないほど、興奮神経を刺激したか、が重要だと思うのです。ヒトの神経は、日ごろの食生活か薬の服用薬に左右されますから」


 喜多川も軽く口角を上げると、優子の顔を見た。


「仁川先生が、宇田川さんの指導教員だと伺いました」


 優子が、誇らしげに笑みを浮かべた。


 喜多川が話し終えると、舞は、優子の顔を見た。


「優子先生がタイミング良く、私を救ってくださったのは、偶然なのでしょうか?」


 優子が、しんみりとした笑みを浮かべる。喜多川の顔をチラリと見ると、口を開いた。


「宇田川が、浮浪者殺人事件の第一発見者だと打ち明けてから、宇田川の身が危ないと感じていました。先ほど、宇田川の話を聞くまでは、犯人の確証は、ありませんでした。私なりに、推測できそうな犯人像から、宇田川を遠ざけようともしました」


 言葉を切ると、優子が続ける。


「今さら隠しても仕方がないので、お話しますが。学内でよく立ち話をする女性警備員の方がおりましてね。私が個人的に雇って、宇田川の警護をお願いしていました。昨夕の宇田川の行動は、報告を受けていたので。宇田川が警察署を出ると、すぐにタクシーを飛ばしました。何もなければ、通り過ぎるつもりでしたが……」


 その後の展開は、喜多川が遠目に見た光景通りだ。以前から、優子が錦城を亡き者にした犯人だとは、思いたくなかった。だが、状況が明らかになるにつれて、優子を疑った。荒垣を疑った例もある。舞は、自身の浅はかさを恥じた。


「数週間前から、誰かに見られているような感覚がありました。警護の方だったのですね」


 黒いタクシーが行き過ぎたり、図書館で視線を感じたりした謎が、解けた。舞は、涙が零れそうになるのを、我慢した。


 その時、喜多川のスマホが鳴った。短い言葉のやり取りの後、「ご苦労様でした」と発しながら、舞と優子の顔を交互に見た。楓の身柄が、拘束されたと思われる。


 喜多川が、立ち上がり、舞と優子に敬礼する。顔を上げると、優子の顔を見た。


「証拠も出揃いました。近いうちに、お話をお聞きすると思います」


 優子も立ち上がり、真剣な眼差しで喜多川の顔を見る。敵意は、ないようだ。三白眼ではなく、いつもの怜悧な表情だった。


 ここ数日の優子の発言から、芦屋医大を去るように思えた。優子は、実の娘を義従姉に託していた。だが、理由はどうあれ、優子は戸籍改竄の罪に問われる。


 優子の教えを乞う時間は、もう僅かだと、舞は思った。

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