第一章 05 事件初日の昼休み

 九号館の裏の細道を進むと、総合病棟の十号館前に出る。舞は、角にあるコンビニに入った。今朝は、刑事二人を待たせていたので、野菜ジュースを一杯、飲んだだけだ。弁当を作る機会も、損ねてしまった。コンビニのレジに並んでいると、レジ脇の揚げ物コーナーが目に入る。今朝の遺体を思い出し、唐揚げがグロテスクに感じられた。

 コンビニから出ると、舞は、九号館の脇にある古びたベンチに腰を下ろした。ベンチの前には、季節の花が植えられている。舞のお気に入りの場所だ。


 ウェット・ティッシュで丁寧に手を拭いて、梅干し入りのお握りを頬張った。梅の酸味が、じんわりと舞の疲れた身体を癒した。


 ベンチからは、昨年、完成したばかりの教育棟を見上げることができる。ガラス張りの近代的な建物で、十階建てだ。俯瞰すると、カタカナの「コ」の字型になっている。


 舞が新卒で就職した六年前は、まだ赤屋根の精神科病棟だった。この場所は、芦屋医大の前身芦屋脳病院の跡地でもある。大正時代から戦前までは、木造の洒落た白い洋館で、赤い屋根が象徴的だった。その頃から、コの字型に建っていたという。


 芦屋医大が創設されて以降は、精神科病棟として、三階建ての鉄筋コンクリートの病棟に生まれ変わった。コの字型と白壁、赤屋根はそのまま受け継がれた。


 舞は、昭和風のクラシックな病棟が好きだった。三年前に旧病棟が取り壊しとなり、更地を見た。認知症となった祖父が入院していた場所でもあったため、複雑な心境になったのを覚えている。祖父の面会がてら、祖母と、このベンチにも、よく座った。


 舞が思い出に耽っていると、十二時五十分のチャイムが鳴り響いた。学生の昼休みの終わりだ。舞は、十三時から午後の仕事に入る。ベンチから立ち上がった。


 合同カンファレンスが始まる前に、資料を纏めなければいけない。


 精神科の医局長が錦城である限り、正式に栄養療法が取り入れられる可能性は低い。だが、錦城は六十三歳。あと二年で定年だ。


 優子が率いる栄養療法は、二年後に向けて、着々と準備を進めている。錦城の定年後、錦城派の医師たちが薬物治療に邁進しないよう、食い止めなければいけない。


 現代の精神科治療は、一時的に良くなっても、また薬が効かなくなる。結局、患者が病院に戻ってくるため、『回転ドア』と呼ばれている。二十年以上、入退院を繰り返している患者も少なくない。


 錦城派の医師たちは「患者のリピーター率」と揶揄し、大学病院の大きな儲け頭だと豪語している。その象徴が、三年前に完成した今の精神科病棟の八号館だ。

十号館の総合病棟とは別に、精神科だけ単独で、八号館一棟が使われている。芦屋医大の看板分野で、ベッド数は百床だ。


 一フロアの面積は他の棟よりも狭いが、鉄筋八階建て。最上階だけ、結核などの伝染病患者の隔離室として使われている。だが、他のフロアは精神科で占めていた。


 一階と二階は外来。三階は最新設備の電気ショックや実習室、検査室、会議室がある。四階から七階までが入院施設である。四階と五階は、男女別の大部屋だ。


 六階と七階は、『独房』と呼ばれる隔離室になる。各部屋に備え付けの簡素なトイレがあり、ストレッチャー式のベッドには太い革ベルトがついている。重度の暴れ回る患者がベッドに括り付けられ、隔離される。牢屋のような、冷たく物々しい雰囲気だ。


 舞は、隔離室を訪れるたびに「こんな姿にしたのは医者たちだ」と考えていた。薬漬けにし、毎日の食生活を疎かにしていたら、神経が狂うは当然だ。神経やニューロンを創る材料も、食べ物から得た栄養素だという事実に、どうして精神科医たちは気づかないのだろうか? 分かっていて、儲かるから薬物治療に専念しているのだろうか?


 今朝の事件は一旦、すっぱり忘れ、舞は、自身の任務に集中し始めた。

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