第一章 04 解剖実習室

 優子の研究室を出て、エレベーター・ホールに出ると、舞は先ほどの荒垣の行動を思い返した。舞は大学院の講義で、荒垣の授業を何度か受けている。


 芦屋医大では、年間二百体以上の遺体を解剖している。兵庫県では異常死体の約三十五%が解剖されており、全国でも高い数字だ。兵庫県警が犯罪の見逃しを防ぐ意味で、解剖数を増やしているためでもある。一見しただけでは事件死か病死かの判断がつかない場合、念のため解剖しておく。すると、血液など身体の組織が保管される。


 解剖が行われると、作成される資料も、その都度データ化される。後で殺人事件だと判明した際、資料やデータがあるのと、火葬してしまっているのとでは大違いだ。


 兵庫県には医学部を設置している大学は二校しかない。芦屋医大の管轄は神戸より東の《阪神間》と呼ばれる地域だ。《阪神間》の定義は、神戸市と大阪市に挟まれた七市一町である。芦屋市・西宮市・尼崎市・伊丹市・宝塚市・川西市・三田市・川辺郡猪名川町となる。今朝の浮浪者殺害現場は西宮市になるから、芦屋医大の管轄だ。


 そろそろ事件現場での検視が終わり、浮浪者の遺体が搬送されるころだろう。舞は、昼休みを利用して、九号館の解剖実習室へ向う。


 芦屋医大の九号館は、立体駐車場の向かい側にある。救急病棟の斜め向かいでもある。そのため、救急車以外の汎用輸送車も九号館の裏側に停車しやすい設計になっている。


 舞は、病棟と教育棟の間の細道を抜け、九号館の前に辿り着いた。実習授業を終えた数名の学生が、九号館から出て来た。だが、変わった様子はない。九号館のエントランスには、年輩だが屈強な警備員が二人、立っている。定年退職した、元警察官という噂だ。


 九号館は、管理栄養士の職務では、本来、訪れる機会のない場所だ。だが、舞は、堂々と警備員に会釈して、九号館に入って行った。白衣姿の舞を訝しむ気配は、なかった。


 一階が解剖実習室のフロアだ。中央に大学の授業で使用する大実習室がある。その左右にも三部屋ずつ実習室があった。右の奥の実習室が、九号館の裏側に位置する搬入出入口に近い。舞は見当をつけると、向かって右側の廊下を進んだ。足音を立てないよう、爪先から着地した。


 廊下の先の搬入出入口は閉ざされており、人影は見当たらない。手前二つの実習室は、ドア表示板が『空室』になっていた。目的の奥の実習室はドア表示板が『使用中』になっている。解剖実習室は、他の教室と違い、廊下から中の様子は見えない設計だ。手術室のように、『手術中』のランプもない。


 舞は、突き当りの搬入出入口の扉の前まで来た。ドアノブをそっと回すと、施錠されていなかった。舞が外に出ると、汎用輸送車が二台と黒いセダンが停車していた。兵庫県警の汎用輸送車ではない。だが、黒いセダンに見覚えがある。舞は目を細め、ナンバー・プレートが見える位置まで移動した。今朝、記憶したナンバーと一致する。


 舞が引き返そうと思った時、後ろから、低い声が聴えてきた。


「そこで何をしている? 宇田川か?」


 舞は焦りを見せず、毅然とした態度で振り返る。荒垣だった。


「昼休みを利用して、他のセクションの見学に来たのです」


「その車と縁があるようだな」授業中と違い、荒垣の口調は厳しかった。


 舞は、荒垣から目を逸らさないよう注意しながら、「お客様ですか?」と、訊ねた。


「俺は、まだ会ってないよ。さっき、来たばかりだからね」


 荒垣が暗い笑みを零す。今朝の舞の出勤風景を見ていたのだろう。

荒垣に質問をしたい誘惑に駆られたが、舞は一礼して、その場を去った。

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