終章 オートファジー

終章 01 優子の親友

 精神科の栄養教室に入ると、小絵が後片付けをしていた。


「今日は、後一名で終わりだったんだけど。キャンセルになったのよ」


 小絵の口調は、のんびりとしている。舞は、キャンセルになった患者の書類に目を通す。


「この患者さん、自制が効くようになっていればいいですね」


 小絵が、頷きながら、テーブルを動かしている。舞は、椅子を元の位置に戻しながら、言った。


「錦城先生の脳の解剖、もう終わっているでしょうね」


「詳細の連絡は、明日かもね。解剖が終わっても、立ち会った先生方がミーティングしているでしょうし」


 アルコール・スプレーで、机や椅子を消毒しながら、舞は頷いた。


「そういえば、今回の新薬ですけど。優子先生の亡くなった旦那さんが、考案したかもしれないって噂、これまでにありましたか?」


 小絵が、悪戯っぽく笑う。


「あったあった。色んな憶測が飛んだよ。震災後、錦城先生の研究が、上の人たちに認められるようになったし」


「学内LANから、仁川先生の論文を、いくつかダウンロードしました。精神疾患者の神経やインパルスを研究していたようですね。ご実家も、心療内科だったのでしょうね?」


 小絵が、何かを懐かしむような表情で首を傾げ、口を開く。


「宝塚の駅前にあった、小児科医院の息子さんだったのよ。私の実家が宝塚でね。私も子供の頃、診てもらったから、覚えているのよ。阪急の今津線に《仁川にがわ》って駅があるでしょう。幼心に、紛らわしいなぁと思ったものよ」


「今は、ないのですか?」と、舞は訊ねる。


「立ち退きで、移転したと思うよ。今はマンションになっているから」


 小絵が、室内を見回すと、傍の椅子に腰を掛けた。


「病院名は、仁川小児科医院でしたか?」


 小絵が何度も首肯しながら話す。


「白い洋風の建物でね。待合室には、ヨーロッパの玩具があって、お洒落だったのよ。風邪を引いて、病院に行くのが、楽しみだったわ」


「どこに移転したかは、ご存知ないですか?」舞は、質問を重ねる。


「実家の母の話だと、奥さんの実家が、甲山の麓だったのよ」


 腕を組みながら、小絵がハッと顔を上げる。


「そうそう。従妹さんがいたのよ! 優子先生と仲が良くてね。なんせ、当時は女子学生が少なかったからね」


「私大の医学部に進学しているので、お嬢様だったのでしょうね?」と舞は、口を挟む。


「そうでしょうね。深層のご令嬢って感じの子だったわ。案の定、三回生の解剖実習で、退学したけどね。お嬢様に解剖実習は、キツイよね~。何処かの女子大に編入したはずよ」


 ペットボトルのお茶を飲むと、小絵が続ける。


「よくある苗字で、確か佐伯さんだったな。私大の医学部の授業料は、高額だから、きっと酒造会社一族のお嬢様だったのでしょうね」


 自身の言葉に納得しながら、小絵は、何度も首肯していた。推測も入っていそうだが、小絵の記憶は、正しいように思えた。


――やっと、佐伯姓に繋がった!


 と舞は、内心で小躍りしていた。小絵は、浮浪者殺人事件の被疑者の名を知らない。小絵に悟られないよう、舞は、年月の経過を計算した。


 以前、角倉から聞いた、甲神学園の創設者一族の噂話を反芻する。何代目かの当主が、家業を継ぐ前に、就職先の転勤でアメリカに渡っていた。その当主が、婿養子だと想定すると? 舞は、仁川祐司の従妹の、下の名前を知りたい、と思った。


 過去の学籍名簿が頼りだ。荒垣に話せば、情報を探してくれるだろう。今日の荒垣との面会は、角倉も一緒だ。明日以降に、相談すればいい。思い直すと、舞は、小絵と一緒に、精神科病棟を後にした。

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