第二章 13 町名に「神」がつく住宅街
土曜日になった。出勤前に荒垣と会ってから、三日が経つ。まだ荒垣からの連絡は入らない。朝の九時。舞はマウンテン・バイクのギアを調整して、神山町へ向うところだ。
ちょうど先週の土曜日に、舞は優子とランチを同席した。その際、優子が窓際席からしきりに見ていた方角が、神山町だ。ゆっくりと神山町をサイクリングする前に、この一週間で、だいたいの地形をグーグル・マップで学習した。
神山町へ行く前に、舞は地元の公民館に寄った。図書コーナーもあり、西宮市の歴史資料が閲覧できる。神山町には、文化財に指定されている洋館や日本家屋もあると聴く。大正時代や昭和初期に建てられたものだ。当時の実業家の持ち家だと見当は付く。だが、名前までは意識していなかった。
今の時代、ほとんどの情報がインターネットでわかるが、限りがある。地元ならではの情報収集も必要だ。舞は公民館の自転車置き場にマウンテン・バイクを止めると、図書コーナーへ向った。一般の図書館と違って、蔵書数は少ない。図書コーナーの奥に事務室があった。ガラス窓が設けられ、受付を兼ねていた。
舞が中を覗き込むと、中年の女性職員が笑顔でガラス戸を開けた。
「神山町の歴史を調べたいのですが」
「町別の資料は、二階の資料室になります」
舞は、女性職員に礼を述べると、階段に向った。資料室は全体に薄暗く、古めかしいスチール戸棚が並んでいる。利用する人が少ないのか、蛍光灯が点滅しているエリアもある。
各戸棚の表示を見上げていくと、『西宮市の歴史』と記された本棚があった。五十音順に町名の間仕切りがあり、古い冊子や黒紐で綴じた帳面まで保管されていた。
資料室の窓際の片隅に、職員と思しき初老の男性が座っていた。睡魔と闘いながら、時折り舞のほうを見ている。資料室の資料は貸出禁止なので、監視役なのだろう。
舞は神山町の資料を何冊か取り出して、テーブル席に移動した。資料によると、神山町は大正時代に温泉や遊園地、旅館などが設けられ、観光地として栄えていたようだ。
大正十二年には今の甲陽園駅が完成している。その当時、ある実業家一家がこの辺り一帯の土地を所有したが、名前までは記されていなかった。
昭和十年になると、土地を所有していた一族が、行楽施設を全て閉鎖し、高級住宅街にするため、西宮市に区画整理を依頼している。途中、第二次世界大戦で中断しているが、空襲の被害にも遭わず、美しい山間は現存された。戦後、本格的に開発が進められ、芦屋に次ぐ高級住宅街となった。舞は、概要を暗記すると、資料を元の場所に戻した。
舞が席を立つと、窓際に座っている男性が眠たげな表情で、舞に会釈した。舞も会釈を返し、男性を瞬時に観察した。歳は六十歳前後、身なりも悪くない。男性は舞の視線に気づくと、「何か質問でも?」と口を開いた。舞は窓際の男性のデスクに近付いた。
「神山町の歴史資料を見ていたのですが。大正時代に土地を所有していた実業家って、何方だったのですか?」
男性は目が冴えたのか、頬を綻ばせて話し出した。
「正式な資料は残っていませんけどね。三つ説がありますよ。電鉄会社の一族か、酒造会社の一族、もう一つは神戸の神鋼造船所の一族ということです」
「この辺りで代々伝わる噂話とか、ご存知ですか?」と、舞は質問を続けた。
男性は左手で頭の後を撫でながら、何かを思い出している表情だ。
「神山町にね、中高一貫の進学校があるでしょう。
男性は、ミネラル・ウォーターを飲むと、得意そうに話を続けた。
「だからあの辺りの土地は佐伯家の所有だった説が有力だと思いますよ」
「あり得そうな説ですが、決定的ではないのですね?」と舞は、訊く。
「あの辺りに、今、言った三つの一族のお屋敷が、三つとも残っているのでね。まだ末裔さんが住んでいるから、個人情報の観点からか、一般には公表されていないのです。まぁ、当事者間は、事実を知っているでしょうけど」
――佐伯一族のお屋敷が、神山町にある。
舞はこの事実を得られた収獲は、大きいと思った。
「税金も凄そうですね」と舞は、敢えてお茶を濁し、丁重に礼を述べて、その場を辞した。
神山町に関西有数の進学校である甲神学園があるのは知っていた。学年の四分の三もの生徒が東大か京大へ進学する名門校だ。数年前に、共学になった事実も地元ニュースで知っていたが、創設の由来までは知らなかった。
進学校なら、医学部に進学する生徒もいるだろう。芦屋医大にも甲神学園の出身者がいないものか? 優子に相談すると、また幼稚な考えだと貶されそうだが、舞はまた一つヒントが増えたように感じていた。
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