第二章 14 高台のお屋敷街

 休日の晴れた日のサイクリングで、舞は何度か神山町を通っていた。だが、幅が狭く、急な坂道は避けていた。急な細道の先ほど、立派な屋敷である例が多い。


 舞は、予めグーグル・マップで、敷地の広い屋敷を五軒ほどピックアップしていた。マウンテン・バイクのハンドルの中央には、スマホを設置している。ナビ通りに進めばいい。


 最初に、五軒の中で一番敷地の広い屋敷へ行った。細道に入ると、電車のイラストを施した案内板が出ていた。電鉄会社の創業者一族の屋敷だと、想像がつく。目的とする屋敷ではないので、舞は来た道を引き返した。


 急な坂道を下り、西へ進むと、しばらく平坦な細道が続く。遠目に、山の斜面を利用して建てられた、鉄筋コンクリートの重厚な建物が見えた。大正末期にアメリカの建築家、フランク・ロイド・ライドが設計した四階建ての邸宅だ。何度か舞の父が運転する車で、前を通った記憶はある。だが、実物を熟視するのは初めてだった。


 現在は、国の重要文化財に指定され、一般に公開されている。酒造組合の迎賓館にもなっているため、人は住んでいない。


 学生のアルバイトだろう。若いガードマンが笑顔で舞を見る。


「今日は、展示室で江戸時代の酒蔵道具展を開催しています。喫茶コーナーもあるので、休憩にどうぞ」


 舞は、笑顔で会釈した。

「この後、寄るところがあるので、次回ゆっくりと来ますね。ところで、白姫酒造さんがこの迎賓館を運営されているのですよね?」


「白姫酒造の八代目当主が建てた邸宅ですが、現在の運営は白嶋酒造ですよ」


 舞は、嫌味にならないよう、青年を瞬時に観察した。人の良さそうな坊ちゃんタイプだ。この手の若者は、口が軽い。


「せっかく神山町に来たので、お屋敷散策してから目的地に行こうと思っていましてね」


「どちらまで、行かれるのですか?」


「甲山の麓にある、『ザ・タイム』です。休日にテラス席で読書するのが、好きでね」


「あそこまでマウンテン・バイクで行くのですか? 相当な運動量になりますね。名物のロースト・ビーフを、召し上がるのですか?」


「ええ、多分ね。ザ・タイムに行く途中で、見応えのあるお屋敷はありますか?」


「ここまで来たら、やはり白嶋酒造の社長宅でしょう! 向って左側の遠目に階段が見えますよね。その上の風見鶏のある洋館ですよ」


「内部事情を、初対面の私に話して大丈夫なのですか?」


 舞の推測通り、青年ガードマンは笑顔で答える。


「この辺りの人なら、誰でも知っている事実ですよ」


「電車からも見える、高台の洋館が社長宅だったのですねぇ」


 青年が嬉しそうに、説明を続ける。

「階段の下まで行ったら、よく観察できますよ。一般公開はしていません。階段も私有地なので、用事がないと上れませんが」


「階段の下で十分ですよ。傍まで行くのも、初めてです」


 青年は、何かを思い出したように、舞の顔を見詰めた。

「そうそう、最近、物騒な噂が流れていましてね。階段の下で、お屋敷を眺めていると、お巡りさんに注意されるそうですよ」


 青年の話に、舞の食指が動く。「何かあったのですか?」と、訊ねた。


「妙な話で。明け方に飼い犬が一斉に吠えたとか。前回の満月は大きくて、赤かったとか」


「犬や満月で警察が動くのは、確かに変ですね」と舞は思わず、顔を顰めた。


「僕はまだ生まれていなかったのですが。阪神淡路大震災の前日も、似たような状況だったそうですね」と、青年が神妙な顔付きで言う。


「満月や新月に、動物の異常行動が見られる説は、よく聞きますね。科学的根拠があるかどうかは、分かりませんが」


 青年が、ポカンとした表情で舞の顔を見ている。舞は礼を述べると、マウンテン・バイクに跨った。青年が笑顔に戻り、舞に敬礼した。青年の視線を感じながら、舞は洋館を目指した。緩やかな坂だが、太腿の筋肉に応える。


 五分ほど進むと、三十段ほどの石造りの階段の下に到着した。お寺の境内を思わせる階段だが、洋館と和洋折衷で見事に一体化している。階段の両脇には、左右対称の二階建ての小さな洋館が建っている。舞の気配を感じたのか、家の中から小型犬の吠声が聴こえた。


 白嶋酒造の現社長は、佐伯姓だ。桐花はこの家の居住者なのか?


 舞は、青年ガードマンから聴いた物騒な噂話について思い返した。目の前の階段を見上げる。佐伯桐花が、明け方にこの階段を下りたと仮定する。今の舞と同じように、犬が吠えたと想像がつく。


 この辺りの家は、一軒の敷地が広いため、犬を飼っているケースが多いだろう。ある一頭の犬が吠えたら、近隣の犬も釣られて吠えだす。同様に、近所の噂話も広がっていく。ただの吠影吠声はいえいはいせいか? 舞は、噂話の真相を確かめたいと思った。


 左側の家を過ぎると、甲山に続く緩やかな坂道が続く。途中、急な坂道になっていたので、舞はマウンテン・バイクを引いて歩いた。急な坂道は、右にカーブしていた。坂を登り切ると、佐伯邸の裏手に出た。木々の隙間から佐伯邸の裏庭が見える。二頭のドーベルマンがじゃれ合いながら、テニス・ボールで遊んでいた。


 舞の気配に気付いて、一頭がフェンスまで走って来た。少し遅れて、もう一頭もやって来た。今度は、威嚇されなかった。


――強面の犬なのに、番犬になっていないなぁ。


 舞は、マウンテン・バイクを止め、犬の目線の高さまで腰を屈めた。よく見ると、タレ目で、あどけない顔をしている。ボールを咥えて、「遊ぼうよ」と言わんばかりに、尾っぽを振っている。フェンス越しに、舞は裏庭をさっと観察した。犬舎と思われる、高さ二㍍ほどの洒落た小屋が見える。


 舞はふと、「さっきは、どうして吠えられたのだろう?」と疑問に思った。立ち上がって、二頭のドーベルマンを見下ろす。二頭は舞に向って、名残惜しそうに鳴いている。この違いは何か? 熟考する価値は、ありそうだ。舞はマウンテン・バイクを引きながら、過去に読んだ海外の論文を、急速に思い返した。


 マウンテン・バイクを引きながら、十五分ほど坂道を進むと、貯水池が見えてきた。貯水池の周りは遊歩道があり、ハイキング・コースになっている。甲山の森林公園からも近いので、子供連れ家族の姿も見られた。舞のお馴染みのサイクリング・コースでもある。


 舞はマウンテン・バイクに跨ると、北西へ進んだ。県道まで出てくると、芦屋医大系列のサナトリウム病院が視野に入った。舞も研修で、何度か訪れている。入院費がやや高額で、主に裕福な家庭の精神疾患者を受け入れている。豪華な調度品はないが、質の良い寝具や病衣が提供されている。その一方で、医療保護入院や、電気痙攣療法も扱われている。


 広大な敷地内には、研究所やパイプオルガン付きの小さなコンサート・ホールまで存在する。外観は美しい緑と花に囲まれている。だが、研究所内では拷問と思えるような治療法が、日々研究されているのだろう。精神科医たちの研究材料になっている患者を思うと、舞の心が痛んだ。サナトリウム病院を眺めながら、北へ進む。


 舞は、ふと、荒垣が言っていた「錦城の極秘リスト」が、脳裏に浮かんだ。サナトリウム病院は、芦屋医大系列だが、運営団体は別だ。極秘研究を行うには、打って付けの場所だと言える。舞は、荒垣からの連絡が、待ち遠しく感じた。


 サナトリウム病院の正門の前を通り過ぎると、小高い丘が見えてきた。欅の木々の間には、木造の豪華な山小屋風建築が垣間見える。舞のサイクリングの終着地、カフェ・レストラン《ザ・タイム》だ。


 ザ・タイムの経営者は、舞の母方の伯母夫婦だ。この辺りの噂話は、だいたい伯母の耳に入る。青年ガードマンから聴いた「物騒な噂話」も、当然、伯母は知っているだろう。


 マウンテン・バイクを漕ぐ舞の脚は、かなり疲労していた。だが、収獲の大きさを思うと、心が弾んだ。

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