第二章 15 高台のレストラン

 ザ・タイムの店内に入ると、ハーブの涼やかな香りが漂っていた。天井が高く、高級リゾート・ホテルを思わせる内装だ。エントランスの時計は、十一時を少し回ったところだった。舞が、奥に進むのを躊躇っていると、ウェイターが出てきた。黒いエプロンに、糊の効いたワイシャツを着こなした若い男性だ。


「予約はしていないのですが。テラス席は、空いていますか?」


 ウェイターは、舞の顔を覚えており、笑顔で頷く。

「マダムを呼んできましょうか?」と、舞に訊ねた。


 マダムとは、舞の伯母、麻生あそう すみれの愛称だ。


「左端のテラス席にいるので、手の空いた時にお願いします」


 舞は、慣れた足取りで廊下を進んだ。廊下の両脇は個室が設けられている。廊下の奥まで歩くと、大広間がある。五十人は着席できるテーブル席になっていた。大広間は全てフランス窓になっており、テラス席へと続いていた。


 テラス席からは、大阪平野から和歌山平野までが見渡せる。テラスの面積も広く、三十席はある。そのため、ザ・タイムは、夜景がキレイなレストランとしても名高い。


 舞は、左端のテラス席がお気に入りだった。


 ほとんどが常連客で、近隣の屋敷の住民や、行楽帰りの人たちだ。甲山周辺には、名門ゴルフ倶楽部や乗馬倶楽部、ローン・テニス倶楽部がある。


 予約なしのカフェ利用もできるので、ちょっとした富裕層の憩いの場にもなっていた。ドレス・コードはなく、カジュアルな服装で立ち寄れるのも、人気の秘訣のようだ。


 舞がテラス席に着くと、既に数名の先客がいた。コーヒーを片手に、読書する中年男性。絶景をうっとり眺めながら、睡魔と闘っている老人。会話が弾む、ロマンスグレーの女性たち。ノートPCを打ち込む、若い男性。年代は様々だが、皆、絵になっていた。


 テラス席から店内を見ると、菫が小さく手を振りながら、舞を見ていた。ウェイターと同様、黒いエプロンにワイシャツだ。菫は長身で、顔が小さい。


 舞の母、紗月さつきによると、地元の歌劇団の元女優だったらしい。舞が生まれた頃は既に引退し、ザ・タイムを切り盛りしていた。菫に女優時代の話をすると嫌がる、と母から聴いていた。そのため、舞も話題にしなかった。


 母の説だと、祖父の反対を押し切って入団したのに、役に恵まれなかったらしい。長身なのに、顔立ちが愛くるしいため、男役に向かない。逆に、女役には背が高すぎた。過去はともかく、今は、ザ・タイムのマダムが菫の天職だった。


 暫くすると、菫が舞のほうへ近づいてくる。

「何か痩せたんじゃんない? 恋煩いかな~?」


 菫の静かでハスキーな声が、耳に心地よい。


「最近、食欲がないのです。残念ながら、恋煩いではありませんけど」


 菫がガッカリした様子で、ソイ・ラテを、舞の前に置いた。


「相変わらず男っ気がないのね。難しい学問を追求しないで、りんちゃんみたいに、はやく嫁に行ったほうがいいわよ」


 凛は、舞の姉だ。舞より三つ年上で、七年前の二十五歳の時に結婚していた。この手の話になると、菫も諄くなる。舞は愛想笑いを浮かべると、話題を切り替えた。


「さっき、迎賓館の前を通ってきたのですが。青年ガードマンが、神山町で物騒な噂話が広がっている、って言っていました。何か知っていますか?」


 菫が盆をギュッと抱きしめ、舞の目線まで、そっと顔を近づけた。


「ランチ時で、もうすぐ混んでくるからね。二時ぐらいまで待てる? その時に、噂話も教えてあげるね」と菫は、楽し気な表情で言った。


 ソイ・ラテを半分ほど飲むと、舞はリュックから文庫本を取り出した。ダフネ・デュ・モーリアの『レベッカ』だ。イギリスの古典ミステリーで、ヒッチコックが映画化した作品でもある。舞は、亡き祖母の影響で、古典ミステリーや古い映画が好きだ。


 フランス窓、ローストビーフなどのイギリス料理、断崖からの絶景……。テラス席は、小説『レベッカ』の世界観とマッチしているように思えた。物語中に出てくるレベッカの美しい幻影も、謎めいた被疑者、佐伯桐花を連想させた。


 身内であっても、菫には殺人事件の第一発見者である事実は伝えられない。


「物騒な噂話」の内容は、喜んで話してくれるだろう。だが、舞の食欲がない理由も追及してくる、と想像がつく。薫は一見、噂好きに思える。だが、職業柄、言って良い事柄か、悪い事柄かは弁えていた。事実を話しても、口外はしないだろう。


――家族であっても、話してはいけない。


 舞は思い直すと、文庫本を開いた。

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