第二章 16 伯母の話し

 小説を読み終えた舞は、手持ち無沙汰になった。屋外時計を見ると、二時を周っている。


 店内は、人が疎らになってきた。だが、テラス席は、ティー・タイム利用の客が入り始めていた。舞は、テーブル席のメニューを開いた。ティー・タイムのメニューには、イギリスの伝統菓子が並ぶ。中でもアップルパイが人気で、季節によって林檎の種類が違うらしい。紅茶の種類も豊富だった。舞が、想像を巡らしていると、背後から声が掛かった。


「やっぱりメニューを見ている時、楽しそうだね」


 菫は、いつの間にか、私服に着替えていた。黒いパンツの上に、ロイヤル・ブルーの綿ニットを着ている。


「個室に行きましょう。私は、賄いランチをいただくから」


 菫は、フランス窓から店内に入った。厨房の脇を通ると、デシャップ・カウンターの奥から、菫の夫、麻生周三の姿が見えた。舞を見て、笑顔で右手を上げている。


 菫の後について入った部屋は、ソファで食事ができる個室だった。


「アップルパイだったら食べられる? 今月の林檎の品種は、宍粟しそう市の原田農園さんの『つがる』よ」


「細目にカットしてもらってください。それと紅茶はキームンで」


 菫は、内線で注文を告げると、舞の顔を見た。舞は、食欲がない理由を尋ねられる前に、先に口を開いた。


「林檎の品種や農家さんまで、記憶しているのですね」


「最近はタブレット端末を導入したから、注文も楽になったけど。数年前までは、お客様の注文を瞬時に覚えていたのよ。だから記憶力が、鍛えられたの」


 菫は確かに、記憶力が優れている。人から聴いた話の内容も、曖昧な箇所が少ない。


「仕入れルートまで、菫伯母ちゃんが管理しているの?」


「仕入れ担当は主人だけど、帳簿付けは私がやっているから、だいたい覚えているわよ」


「灘の銘酒も扱っていますよね?」


「灘のお酒は、自慢じゃないけど、詳しいよ~」


 菫が静かに笑い声を立てていると、ウェイターが賄いランチとアップルパイを運んできた。ウェイターが立ち去り、ドアが閉まるのを見届けると、舞は再び口を開いた。


「さっき、迎賓館の前を通って来たと、言ったでしょう。あそこ、元は白姫酒造の邸宅だったそうですね。このレストラン、白姫のお酒も入れていますよね?」


 菫は、賄いのローストビーフ丼の中央に、箸で窪みを作った。生卵の黄身だけを、その窪みに流し入れた。


「灘の銘酒は、一括して酒造組合に頼んでいるわ。一軒ずつ頼んでいたら大変だから」


「あの迎賓館って、今は白嶋酒造の運営だけど、元は白姫酒造の本家でしょう。元の住人は、どこに、いらっしゃるのでしょうね?」


 菫は、ご飯をローストビーフで包むと頬張った。嬉しそうに咀嚼して飲み込むと、口を開いた。


「確か、東灘で亡くなった昭和の文豪がいたでしょう。その日本家屋を買い取って、そこに住んでいると思うよ。文豪の直筆原稿や身の回りの品々も譲り受けているから、結構な資産価値になるみたいね」


「オークションに出したら、凄い値がつきそうですね」と、舞は合の手を入れた。


 菫は頷くと、丼をがっつくように箸を進めた。かなり空腹だったのだろう。一般に下品と思える仕草も、菫がすると優雅に見える。舞が矢継ぎ早に質問すると、菫が食事を楽しめない。舞もアップルパイを一口、頬張った。甘酸っぱい酸味が、口に広がった。

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