第二章 17 明け方の幽霊話
菫が賄いランチを食べ終えると、タイミングよくウェイターが入って来た。菫用の食後のコーヒーとアップルパイが、運ばれてきた。
ウェイターが出て行くと、菫が舞の顔を見る。
「しばらく、誰も入ってこないから、ゆっくり話せるよ」
菫はアップルパイを口に入れると、頬を緩ませた。舞は、深刻な表情にならないよう、口角を上げた。
「神山町の物騒な噂話って、怖いお話なのですか?」
「先週、夙川のベンチで身元不明の男性の遺体が見つかったでしょう。どうやら浮浪者らしいね」
舞は、知っている事実を悟られないよう、相槌を打つ。
「神山町辺りでね、急にお巡りさんが、立ち寄るようになったのよ。ここはレストランだから、前から近所の交番の人が立ち寄っていたけどね。お屋敷だと言っても、一般民家だし、急に変でしょう?」
「それとなく、聞き込み調査をしているのでしょうね。まだニュースにも、新聞にも、その後の報道は、されていませんよね」
「確実な事実が判明しないのでしょう。迎賓館のガードマンから、どこまで聞いたの?」 と菫がコーヒーを飲みながら、舞の眼を見る。
「白嶋の本家が風見鶏のある洋館だそうですね。その前に、長い階段があるでしょ。たまに人が立ち止まって、建物を見ているそうです。でも最近は、お巡りさんに注意されるそうですね」
「見事な洋館だから、思わず立ち止まって見上げるわよね。他には?」
「最近、明け方に犬が一斉に吠えていたとか、前回の満月が大きくて赤かったとか。阪神淡路大震災の前日も、似たような現象があったとか。そんなところですね」
菫がコーヒーを啜りながら、静かに笑う。
「私が聴いた内容の一部と同じね。もうちょっと詳しい情報もあってねぇ。私なりに、噂話を整理してみたのよ」
「そんなに、沢山の人が話していたのですか?」と言うと、舞は前のめりの姿勢になった。
「平日のティー・タイムは、暇なご婦人たちの溜り場だからね」
舞は、何度も首肯すると、先を促した。菫が、タブレット端末のカレンダーを開いた。
「二週間ぐらい前の金曜日だから、九月十七日ね。年輩の女性がね、『飼い犬が明け方に、異常な吠え方をした。だから睡眠不足だ』って話していたの。そうしたら、違う女性が、『うちの隣のお宅も、同じことを言っていたわ』って言い出してね。その日は、不審者でも、ウロついていたのだろうって話で終わったのよ」
菫が一呼吸を置くと、続けた。
「月曜日は定休日だから、先週の火曜日ね。違うお客様が、『ここ数日、明け方に犬が一斉に吠えるみたいですね』って教えてくれたの。『土日もずっとだったのですか?』って聞き返したのよ」
舞は頷きながら、午前中に佐伯邸の階段前で聞いた、小型犬の吠声を思い返した。菫の話が続く。
「先週の水曜日には、別のお客様が『昨日の満月、赤くて大きかったですね』って話し出してね。見た人が『私も』と言い出すし。また地震でも来るのかしら? って、ご婦人たちが不安がっていたわ」
舞は、菫の話を黙って聞きながら、犬の吠声に関する論文を懸命に思い返していた。
「結局、地震はなかったけど、木曜日に浮浪者の遺体が見つかったでしょう。その翌日にあたる金曜日以降からは、お客様から犬の吠声の話は聴かないようになったの。すると、今度は、警察の聞き込みの噂でしょう。タイミングが良すぎる、と思っているのよね」
菫は、タブレット端末のカレンダーを見ながら、人差し指で何やら確かめている。舞は、紅茶を飲むと口を開いた。
「菫伯母ちゃんは、犯人がこの辺りをうろついていると、考えているのね?」
「犬が吠えないようになったから、もう、この辺りにはいないと思うわ。だけど、前はうろついていたのかもね」
「不審者を見かけたなどの噂話は、なかったのですか?」
「ないのよねぇ。事件とは関係ないけど、幽霊話なら聴いたわよ」
菫が、コーヒー・ポットに手を伸ばす。
「裏山の農家の男性がね、明け方に幽霊を見たかも、って、笑いながら話すのよ」
舞は、佐伯桐花が明け方に、彷徨う姿を想像した。
「市場からの帰り道、軽トラの運転中にね。いつもは県道を通るけど、迎賓館のレストランに野菜を届けるから、細い坂道を通ったそうよ。そうしたら、髪の長い白い衣装を着た女性が遠目に見えたらしいよ」
舞は、思わず前のめりになって聞き入った。菫が舞を見て笑う。
「笑い話なのに、真剣に聞かないでよ。この辺、県道の《
舞は真顔のまま、「夢遊病者のケースもありうるなぁ、と思ったのです」と、言った。
「いつも勤務先で、患者さんの様子を見ているから、視点が違うのね。子供の時から、怪談話をしても怖がってくれなかったものね」
菫が「さすがリケ女だね」と茶化しながら、笑っている。
「警察の聞き込みの内容は、耳に入っているのですか?」
「ただの様子見を、装っているみたいね。『最近、不審者を見たとか、変に思うような出来事ありましたか?』って訊くみたいよ。写真を見せる訳でもないし、具体的な内容の提示もなかったんですって。大抵の人たちが、犬の話と満月の話をしたらしいわ。『夙川の殺人事件があったからですか?』って訊いたら、『ただの見回りです』って言うそうよ」
「幽霊の話も、警察の耳に入ったでしょうねぇ」
「裏の農家さん、近所のお巡りさんと、よく喋っているから、話したでしょうね。ご婦人たちの噂では、幽霊話は出ていなかったわ」
菫の話しぶりでは、幽霊の実態が殺人事件と結びつくとは考えてないようだ。舞は、菫の楽し気な様子を見ながら、ハッとした。犬の吠声に関する論文が、脳裏に浮かんだ。確か、オーストラリアのストック博士によるものだ。
――犬は、カテコラミンが分泌されている人間に近付くと「恐怖の匂い」と感じ吠え出す。嗅覚が鋭いため、離れた場所でも感知する。
カテコラミンは、興奮神経のドーパミン、アドレナリン、ノルアドレナリンの総称だ。カテコラミンが高濃度の時、狂暴性が出る。
もし、幽霊の正体や、犬が一斉に吠え出した原因が佐伯桐花なら? その時の桐花は、カテコラミンが高濃度だったと考えられる。犬が明け方に吠え出した家々は、特定できないものか? 家が特定できれば、桐花の足取りも判明するのでは?
舞が、午前中、家の中にいると思われる小型犬に威嚇されたのは? マウンテン・バイクを漕いで坂を登ったため、運動時に分泌されるドーパミンが原因と考えられる。
舞が考えに集中していると、菫が舞の前のティー・ポットに手を伸ばした。舞のティー・カップに紅茶を足している。
「そういえば、どうして最近、食欲がないの?」
不意を突かれた。舞は咄嗟に頭を回転させる。
「食事中には、言いにくかったのですが。先週、早朝のサイクリングで、見たんですよ」
「まさか、あなたも幽霊を?」
「いえ、猫ちゃんのねぇ。無残な姿です……」
菫は合点が行ったのか、大きく頷いた。
「猫ちゃんねぇ。ドライバー泣かせよね。よく聴く話だけど、実際に見ると、食欲がなくなるよね。特にお肉はねぇ……」
何度も首肯していた菫が、残念そうに舞を見る。
「いつになったら、恋煩いのお話が聞けるようになるのかなぁ」
舞は、愛想笑いを浮かべるしかなかった。だが、頭の中は、考察に集中し始めていた。
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