第二章 09 医局長と対面

 錦城との面談時間が迫って来た。舞は、教育棟の八階、南側廊下を静かに歩いていた。


 医局長クラスの研究室は、他の教授や准教授の研究室と比べて広い。そのため、フロアの東側に歩を進めるほど、各研究室のドアとドアの間隔が広くなった。


 舞は錦城の研究室のドアをノックした。しばらくすると、解錠の音が二回聴こえ、ドアが開いた。ダブルロックになっているらしい。


 白衣を着た、神経質そうな若い男が立っている。錦城の指導を受けている、研修医だ。


「お待ちしていました」と、舞に敬礼する。


 ドアを入ってすぐは、間仕切りがあり、中の様子は見えない。間仕切りを通り過ぎると、豪華な黒い革張りの応接セットがあった。部屋の奥に、マホガニーの重厚な机がある。錦城は、窓を背に革張りのPCチェアに座っていた。舞の顔を見ると、「やぁ、来たね」と言いながら、立ち上がった。


 舞は、錦城に促され、手前の三人掛けソファの中央に座った。傍らに荷物を置く。エコ・バッグから『氏鉄饅頭』の菓子折りが入った紙袋を取り出した。


 錦城が、舞の向かい側の一人掛けソファに座る。視線がチラリと、紙袋に移る。錦城の表情が一瞬、ニンマリした。


 給湯室から、先ほどの研修医が出て来た。舞の前に、淹れたてのコーヒーとショート・ケーキを並べた。続いて、錦城の席に回る。


「美味しいケーキとコーヒーを頂きながら、質問にお答えしますよ」


 錦城は、上機嫌だ。舞は、菓子折りを持って、ゆっくりと立ち上がった。錦城の席まで回り、軽く頭を下げた。


「錦城先生の大好物だとお聴きしたので」


「さすが優子先生が見込んだだけあるねぇ」


 錦城も立ち上がり、相好を崩して菓子折りを受け取った。研修医の顔を見ると、退室を促した。舞が元の席に戻ると、錦城が笑顔になる。


「さてと、何が訊きたいのかなぁ?」


 錦城は、不気味とも思える、優しい声音だ。


「質問の前に、お伝えしておきたい事実があります」


 と舞が前置きをすると、錦城の眼差しが神経質になった。


「夙川の浮浪者殺人ですが……」


 と舞が話し始めると、錦城の眼が一瞬、泳いだ。眼光が一層、鋭くなっている。


「殺害現場の第一発見者は私なのです」


 錦城は舞から視線を逸らした。背筋を伸ばしたまま、腕を組んだ。眼を伏せて、何かを考えている様子だ。ゆっくりと眼を開き、笑みを漏らす。口元がやや歪んでいる。


「失礼だけど、証拠はあるのかな?」


 舞は、リュックからスマホを取り出した。先週の木曜日に撮影した動画をタップする。


 錦城が眼を細めて、動画に見入った。


「兵庫県警は、通報時にスマホの動画情報を取り込めるようになったからねぇ。便利な世の中になったものだ」


 錦城は、核心に触れようとしない。


「この動画を見るのは、二度目ですよね?」


「鋭いものだねぇ。質問は、この事件のことかな?」

 錦城の声のトーンが、やや高い。


「被疑者の食行動を知りたいのです。アメリカの研究報告では、犯罪者の食生活の統計を取ると、ジャンク・フードやお菓子を、食事代わりにしている事実が判明しています」


「まぁ一理あるだろうね。でも、食べ物の好みで、性格が形成されるわけではないし」


 錦城は、ニヤリと笑みを浮かべて、ケーキを頬張っている。舞の発言を馬鹿にしているのではない。

 心底、ケーキが美味しいと思っている表情だ。


 今の錦城は、夕食前の空腹時に、高血糖食品を食べている。間もなく、錦城の体内では、血糖値が急上昇するだろう。そのタイミングで、気に障る内容を話したと仮定する。すると、興奮神経が最高潮に達し、錦城が声を荒げ出すのは、眼に見えている。


 舞が念を押そうとすると、錦城が先に口を開いた。


「遠慮しないで、ケーキを、どうぞ。口に合うといいけど」


 コッテリとしたホイップ・クリームを見ると、食欲が失せた。ホイップ・クリームは肉類と同様、飽和脂肪酸を含んでいる。舞は、哀し気に見えるよう、眉根に皺を寄せた。


「実は、木曜日から食欲がないのです……」


 錦城は、気の毒そうな表情で舞を見ている。

「遺体を見たショックだね。気にしなくていいよ」


 初めて聴く、錦城の優し気な声だ。錦城の体内は、ケーキを食べた後で、血糖値が上がってきている。ちょうど、気分が良くなっている状態だ。


 錦城の機嫌が良いうちに、交渉を終わらせるのが得策だ。舞は、錦城に微笑んで見せた。


「次回、精神鑑定をされる際、被疑者の食行動を訊き出していただけますか? 私も、精神鑑定に役立つ情報があれば、話します」


 錦城は、視線を落とし、コーヒーを啜っている。

「被疑者が、浮浪者の頸椎を刺す様子は映像で見たよ。その前の行動を教えてくれる?」


 舞は、木曜日のウォーキング時に見た光景を、詳細に話した。


 錦城は、時折り舞の眼を見たが、ほとんど床の一点を見詰めていた。舞の話を聴きながら、別の考察をしていると見て取れる。


 舞が話し終わると、錦城は小声で礼を言い、また床を見詰めた。錦城が、分析内容を舞に伝えることはない。つい、話してしまうような、誘導尋問が必要だ。


 舞は、海外の研究事例を思い返し、「質問いいですか?」と、声を掛けた。


 錦城の視線が、舞の顔に移る。

「君の話を聴きながら、あれこれ分析してしまったよ。何かな?」


「先ほどの質問に戻るのですが。ジャンク・フードや食事代わりにお菓子を食べている人は、低血糖状態を引き起こしますよね。ヒトは低血糖状態の際、カテコラミンが異常分泌される事実が判明しています。そして、カテコラミンが高濃度の時、性格の異常性が増し、攻撃的行動に出るというデータも、数多く上がっています」


「カテコラミンねぇ。興奮神経と呼ばれているドーパミン、アドレナリン、ノルアドレナリンの総称のことだね。君の話は、海外の犯罪歴の統計でしょう? 日本の研究データと違うからね。でも、君は関連があると言いたいのだね?」


「ええ。被疑者は、何らかの状態でカテコラミンが異常分泌していたと考察できます。それで、被疑者の食生活を訊き出して頂きたい、とお願いに上がったのです」


「人間には、生まれ持った性格もあるからね」


「お言葉を返すようですが、性格の形成も、子供の頃の食生活が影響しているのではないでしょうか? これもアメリカの事例ですが、青年犯罪で捕まった若者の大半が、親の手料理を食べて育っていません。貧困層に犯罪が多いのも、安価に手に入るインスタント食品やスナック菓子などの食生活が原因だと統計が出ています。この手の食品は、糖質過多になりますから、低血糖状態になりやすく、カテコラミンが異常分泌されやすいからです」


「親の手料理ねぇ。一理あるだろうね」錦城は腕を組み、また床の上を見詰めている。


「何か、思い当たるフシでも?」と、舞は訊ねた。


 錦城が顔を上げ、口角だけ上げた。だが、眼は笑っていない。

「物は考えようだなぁと思ってね。我々は、異常になった神経を、薬物でどうやって正常に戻すかを研究しているからね。それには、神経回路の仕組みの研究が重要だ。学会では、薬物に関する論文なら通るけど、食べ物の影響は認めてもらえないからね」


「学会論文に通すための研究ですか?」


「学会から相手にされないようになったら、生き残れないからね。特に医学や薬学の世界では。栄養学は別だけどね」


 錦城の表情が、一瞬だけ哀し気に見えた。錦城の話が続く。


「日本の精神医学では、食生活の追求までは求められていない。些細な出来事にキレる人間が犯罪に至っても、精神の障害とは見られない。それに、糖質過多の食生活が原因で、カテコラミンが異常分泌されていても、副作用とは言えないんだ。これが薬の副作用なら、話は別だけどね」


 錦城の表情が和らいでいる。核心に触れるなら今だ。


「薬の副作用なら、セロトニン症候群で躁状態になり、突飛な行動に出るとも考えられますよね? ある意味、カテコラミンの異常分泌状態と、似たような行動だと思えますが」

 と舞が言うと、錦城が眼を細めて、笑みを零した。


「なかなか、鋭いね。SSRIのことかな? 私もその副作用の可能性は考えたよ」


 SSRIとは、「選択的セロトニン再取り込み阻害剤」の略称だ。厚生労働省のホームページでも、SSRIの副作用として攻撃性が指摘されている。日本でも複数の製薬会社から処方薬が出ている。


 錦城が上機嫌で続ける。

「被疑者の尿や血液のサンプルからは、SSRIと思しき成分は検出されなかったよ」


「他の薬物の可能性は、ないのですか?」


「精神疾患の患者に処方されているような薬物は、検出されてない。我儘に育ったお嬢さんが、自分の思い通りにいかないから、ヒステリーを起した。そんなところかな」


「その考察なら、精神疾患者や薬の副作用による犯行の範疇には入りませんよね? 有罪になるのでしょうか?」


「すぐに結論は出せないけど、無罪は難しいかもね。まだ、被疑者の記憶が曖昧でね。演技かどうかも含めて様子見だ。近いうちにまた診察するから、食行動は訊いておくよ」


 錦城はニヤついていると言えるほど、機嫌が良い。ケーキを食べた後の高血糖状態で気分がいいのだろう。だが、砂糖から得た高血糖状態は長くは続かず、血糖値が下がるのも速い。そうなると、機嫌が悪くなる。舞は管理栄養士の目線で、錦城の様子を観察していた。そろそろ引き上げたほうが良さそうだ。舞は、ゆっくりと口を開いた。


「最後に、もう一つ質問があります。被疑者の肌はキレイでしたか?」


 錦城が戸惑ったように、笑った。

「女性の質問は面白いね。セクハラだと言われそうだけど、抜けるように白い肌だったよ」


「吹き出物とか、リスト・カットの痕とかは、無かったのですね?」

 舞が念を押して尋ねる。錦城は、愉快そうな表情で口を開く。


「正直なところ、美人なのに、突飛な行動で人生を台無しにして、残念だと思ったよ」


 肌がキレイなのは、カテコラミンが異常分泌するような食事は摂っていない、と考察できる。敢えて新薬についての質問はしなかった。桐花はSSRI以外の薬物の副作用で、突飛な行動に出たのだろう。舞は直感した。

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