第二章 10 早朝のカフェで

 マウンテン・バイクから降りると、舞はスマホの時計表示を見た。時刻は、七時二十五分だった。舞は、レトロな喫茶店の前にいた。芦屋医大の職員用駐車場から、徒歩五分ほどの距離だ。早朝、六時半から開いているが、路地裏にあるため、目立たない。


 ワインレッドのオーニング・テントには、白い印字で《ブリック》とある。英語で「レンガ」という意味だ。店名通り、小さなレンガ造りの一軒家で、所々、蔦が延びている。イギリスの片田舎のカフェを思わせた。


 舞が店内に入ると、隅の窓際席に荒垣がいた。トーストを囓りながら、朝刊を読んでいる。店内には、近所の常連客と思しき男性が数名、朝食を摂っていた。


 舞が近づくと、荒垣が顔を上げた。朝日に照らされた荒垣の顔は、引き締まっていた。服装はいつも通りラフで、ベージュのチノパンに黒いトレーナーだ。ビンテージ風の趣がある。荒垣は案外、お洒落なのかもしれない。舞が荒垣の向かいの席に座ると、マスターが追加のトーストを運んできた。マーマレードが添えられている。舞は、ホット・コーヒーとトーストを注文すると、舞は荒垣の顔を見て言った。


「実は甘党なのですか?」


「祖父の影響でね。朝だけコナン・ドイル風にトーストにマーマレードを塗るんだ」


「シャーロック・ホームズがお好きなのですね」


「祖父が愛読していたんだ。『コナン・ドイルの頭脳は、朝のマーマレード・トーストから始まるんだ』って、よく言っていたよ」


 荒垣は、解剖の説明と同じく、淡々と話す。


「君から見たら、朝から甘い物を食べて、偏食なのだろうね。ちなみに、ここのマーマレードは、ノン・シュガーだ」


「人間には血糖値の低い時間帯が三回ありますし、朝の時間帯なら、問題ないかと思います。それに、荒垣先生は、朝から重労働が待っていますし。カロリーもちゃんとお昼までに消費してそうですね」


 舞の前にも、淹れたてのコーヒーと、焼き立てのトーストが並んだ。トーストには、溶けたバターが染み込んでいた。日頃の舞は、小麦製品をほとんど口にしない。が、子供の頃の朝食風景を思い出し、オーダーしてしまった。


「そういえば、コナン・ドイルって医者でしたよね」と、舞はポツリと言った。


「それが何だ?」


「医者として、血糖値の下がる時間帯とか意識していたのかなぁ、と思いましてね」


「コナン・ドイルが生きていた時代は、百年ぐらい前だから、まだ血糖値云々は解明されてなかっただろうね。まぁ医者としては廃業寸前だったらしいし。君も読むのか?」


「何冊かは読みました。薬剤師だったアガサ・クリスティーの小説は、ほぼ読破しました」


「それも研究の一部か?」


「趣味ですよ。医学考証がキチンとしていますし、確かに研究の参考にもなりますね」


 荒垣は、「なるほどね」と言いながら、コーヒーを飲みほした。コーヒー・カップを、カウンターにいるマスターに見えるよう、高く掲げた。マスターが頷くと、コーヒー・ポットを持って席に近付いて来た。歩きながら、視線だけを動かして、舞と荒垣の顔を交互に見ている。マスターは、舞のコーヒー・カップにもコーヒーを足してくれた。


 マスターがカウンターに戻るのを見届けると、荒垣が壁時計をチラリと見た。


「例の件だけど」と、荒垣が小声で言う。


 思わず、舞の手が止まった。緊張が走った。舞は、荒垣の眼を凝視した。


「血液サンプルから、目当ての成分が検出できたんだ」


 舞は顔を綻ばせて、「例の人に、掛け合ってくれたのですね?」と、言った。敢えて、錦城の名前は出さなかった。荒垣の言う「目当ての成分」は、ボルテキセチンだ。


「そこは、想像に任せるけどな」


「今、血液サンプルと仰いましたよね? 先日の時点では指紋サンプルだったのに」


 荒垣が、お得意のニヒルな笑みを浮かべた。

「多くは語れない。ヒントをキャッチしたようだね」


 舞は昨日、荒垣が錦城の研究室から出て来た様子を思い返した。


 荒垣が、錦城に掛け合ってくれたのは、間違いないだろう。


「あとは、治験薬の入手経路が問題ですね」と、舞は言った。


「治験薬は、俺の仕事と関わりがないよ。リストを作った薬剤師は、わかるのか?」


 荒垣は、聴き取りにくいほど、声を落とした。舞は辺りをそっと見渡し、リュックからノートを取り出した。「北島楓」の名前を書いて、荒垣に見せた。


「記憶にないなぁ。まぁどこのLANに格納されているのか、見当はつくけどね」


「私の指導教員も、同じ内容を仰っていました」


 舞も、さらに声を落として続けた。


「幼稚な推測なのですけどね」と前置きをすると、ノートの「北島楓」を指さした。


「この人と被疑者は、同じ女子大の薬学部なのです。年齢差から推測すると、被疑者が一回生の時、この人は六回生です。同じゼミだったとか、面識があったように思えるのです」


 荒垣は、優子と違い、舞の発言を馬鹿にはしなかった。


「薬学部のある県内の女子大だね?」荒垣が念を押してくる。舞が頷くと、荒垣が続けた。


「大学時代の同期生が確か、医学系科目の講師で行っているはずだ。探りを入れてみるよ」


 舞は、また顔を綻ばせた。


「指導教員には馬鹿にされましたけど」


「その教員も、その線を探っているだろうね。わざと馬鹿にした態度を取って、君からヒントを得たと思っているだろう」


 舞は顔を顰め、「まるで、敵みたいな言い方をするのですね」と、荒垣に歯向かった。


 荒垣は、フッと笑みを漏らしたが、それ以上は語らなかった。小声で「別々に出よう」と言うと、二人分の会計を済ませ、店を出て行った。


 荒垣は、舞の知らない何かを知っている。それは何か? 舞は冷たくなったコーヒーを飲み干すと、窓の外に視線を移す。遠目に、既に小さくなった荒垣の後ろ姿が見えた。

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