第二章 08 解剖医の意図は?

 月曜日になった。舞が朝のメールチェックをしていると、錦城からの返信メールが見つかった。他のメールを後回しにして開く。今日の午後五時半から、錦城と面談することになった。舞は、錦城が得たい情報を提供できると、確信していた。だが、菓子折りなど、表面上の礼儀も必要だと感じていた。


 錦城とは、精神科の合同カンファレンスや大学院の講義で顔を合わせる。薬物療法が中心のため、これまで、質問に行く機会もなかった。そのため、食べ物の好みも全く知らなかった。午前の回診前に、優子を訪ねて、菓子折りの相談をしようと思い立った。


 教育棟の八階で、エレベーターを降り、優子の研究室に向った。角を曲がると、角倉が優子の研究室に入っていく姿が見えた。


 タイミングが悪かった。舞は南側に回って、荒垣の研究室に足を向けた。精神科病棟内の移動と同様に、忍び足で歩いた。角を曲がる前に、南側の廊下をそっと覗いた。


 東南の角部屋に位置する部屋が、錦城の研究室だ。ちょうどそこから、荒垣が出てくるところが見えた。舞は、見てはいけない場面に出くわしたと思った。素早く、壁の陰に隠れる。幸い、舞の影は南側の廊下に伸びていない。


――荒垣先生が、錦城先生のところに?


 荒垣と錦城は、別の立場から、浮浪者殺人事件を担当している。荒垣が錦城に接触したのか? 錦城が荒垣を呼び出したのか? いずれにしても、情報交換がなされたのだ。


 舞は、そのまま耳を澄ました。微かにドアが開閉する音が聴こえた。舞は再度、南側の廊下をそっと確認し、無人を確認した。


 舞が、荒垣の研究室のドアをノックしようとした時だった。ドアが、静かに開いた。


 荒垣が小声で「ビックリした」と仰け反りながら、舞を見る。


「質問か? ちょっと急ぐから、歩きながらで、いい?」


 舞が答える間もなく、荒垣は素早く施錠し、歩き出す。エレベーターとは反対側だ。


「八階から階段で下りるからな」と、荒垣が小声で言う。


「階段のほうが、他人目もなく都合がいいですね」と、舞は相槌を打った。


 舞は、荒垣の後に続いた。八階から階段を利用する者は少ない。教育棟はガラス張りの建物だが、階段エリアに窓はない。靴音が響かないよう、ライト・グレーのカーペットが敷かれている。


 荒垣が腕時計を見ながら、「何だ?」と呟く。


「今日の夕方、錦城先生と面談することになりました。優子先生の許可は取っています。私が第一発見者だと、名乗り出ようと思っています」


 荒垣が、横目で舞の顔を見る。興味深げな表情だ。


「錦城先生は、是非とも第一発見者に会いたいだろうね。君は、交換条件に、精神鑑定の情報を訊き出したいのだろう?」


 荒垣が階段の踊り場で足を止め、舞の顔を覗き込む。


「込み入った内容を訊き出したいなら、菓子折りの一つでも用意したほうがいいだろうな。あの年代は特にね」荒垣も、優子と同意見だった。


「そのつもりです。そこで質問なのですが、錦城先生は何がお好きなのでしょうか? 栄養指導をしている者としては、甘いお菓子を渡す気には、なれないのですが……」


「確か、尼崎銘菓の『氏鉄うじがね饅頭』が好物だったと思うよ。同期の角倉が、錦城のご機嫌取りに、欠かせないと言っていたなぁ」


 舞は、先ほど荒垣が錦城の研究室から出て来た光景を思い返す。


「荒垣先生も、お届け物で渡したことがあるのですか?」


「俺が、そんな気配りをできるタイプだと思うか?」と荒垣が、声を落として笑った。


「菓子折りを渡すのも、軽い賄賂みたいなものだ。嫌う人もいるけど、錦城先生は喜ぶと思うよ」


「糖質オフ・スイーツを渡したいところですが、割り切りも必要ですね。『氏鉄饅頭』なら、駅前に支店がありますしね」


 踊り場の数字が『2』になった。太腿の筋肉が重く感じる。いい運動になったようだ。先に下りている荒垣が、「質問は、それだけか?」と言いながら、舞を振り返る。


「今の時点では。例の件は、ご連絡をお待ちしておけばいいですね?」


 階段を一階まで下り切った。荒垣が「ああ」と、ぶっきら棒に呟くと、左手を軽く上げた。舞は、九号館に向う荒垣の後ろ姿を見た。機会があれば、荒垣が解剖医を目指したキッカケを訊いてみたいと思った。


 教育棟の通用口を出ると、足早に精神科病棟へ向った。


 錦城の好物である『氏鉄饅頭』は、芋餡の入った焼饅頭だ。阪神間の主要な駅前には、必ず支店がある。他府県には出店しないため、兵庫土産として名の通った和菓子でもある。菓子名は、かつて尼崎城主であった戸田氏鉄から来ている。


 ある研究データでは、甘党の高齢者は、脳の『海馬』領域が狭い事実が確認されている。そのため、認知機能が低下し、認知症になりやすい。『氏鉄饅頭』は、亡き祖父も好物だった。今なら、祖父が認知症になった背景が理解できる気がした。


 錦城の態度も、甘党と知って、合点がいった。以前から、錦城の顔色や体格から、血圧が高めかもしれない、と推測していた。白衣で腹部が隠れているが、やや太めだ。 


 院内の噂話でも、「錦城先生が怒鳴っているのを見た」と、よく小耳に挟む。甘党なので、低血糖症を起こしていると考えられた。


 鋭い目付きで、いつも人を見下した、高慢な態度も印象的だ。一方で、自身に得のある話や、目上の者には、やや声のトーンが上がる。口調も優し気だ。


 錦城は、優子に話し掛ける際、話し方が馬鹿丁寧だ。敵意を持ちながらも、何か弱味があるのか? 機嫌を取っているように見えた。

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