第二章 07 視線の先

 舞は十号館の従業員用のエレベーターで、最上階に向った。清掃業者の女性や、看護師で混み合っていた。十階に着くと、そこは《御影ホテル》が運営するレストラン内だった。食材の搬送やレストランのスタッフが移動し易い位置だ。


 優子は今朝、舞の院内用スマホに、「いつもの個室を予約しています」とメッセージをくれた。


――ヒトの行動はパターン化している。


 荒垣から指摘された言葉を、舞は思い返した。約束の時間まで、まだ十五分ある。舞はスタッフに声を掛けて、予約の個室内に入れてもらった。


 北欧風のインテリアで、明るい小部屋だ。舞が入ると、優子が既に着席していた。


 優子は、いつも、神戸方面の六甲山脈が見渡せる席がお気に入りだ。だが、今日は向い側の甲山や大阪方面が見える席に座っている。手にはオペラ・グラスを持っていた。


 優子が、舞に気付いた。オペラ・グラスに目を落とし、照れたように口を開く。


「ここからの景色を望遠鏡で見たら、面白いだろうな、と前から思っていたの。望遠鏡がないから、オペラ・グラスを持ってきたのよ」


 ニコン製の小振りの小さな黒いオペラ・グラスだった。


「いつも神戸方面ばかり見ているから、今日は大阪方面をじっくり見ようかな、と思って」


――単なる興味本位で景色を見ているワケはない。


 と、舞は察した。いつもの優子より、饒舌にも思える。


「何か見えましたか?」


「甲山が近くに見えて面白いよ。舞さんも見てみる?」


 優子がオペラ・グラスを、舞に渡してきた。


 舞は受け取ると、オペラ・グラスを覗いた。小さいながら、性能が良い。舞は、腰をやや後ろ向きの体勢で、甲山に焦点を合わせた。なるほど、甲山が、かなり近くに見える。視界を、少し下にズラした。夙川沿いの桜並木も確認できた。


 甲山より低い、北山らしき雑木林も見えた。甲山と北山の中間が神山町だ。高台に建つ洋館や日本家屋の家々が、小型模型のように並んで見えた。


 優子は甲山方面を見ていた。まだ舞は、優子に昨日の事情聴取の内容を伝えていない。


「面白いでしょう?」と、優子が笑顔を見せて、念を押してくる。


 舞は、優子の意外な一面を垣間見た気がした。違和感が残る。優子には、やはり怜悧でいて欲しいと思った。舞は、オペラ・グラスを優子に渡しながら、微笑んで見せた。


「今日は雲一つない、秋晴れですね。甲山の麓のお屋敷街まで、ハッキリ見えましたよ」


 優子の表情が一瞬、曇ったように見えた。


 ウェイターが料理を運んできた。優子はいつも、神戸牛のシャトーブリアン・ステーキをレアで注文する。シャトーブリアンは、脂身が少なく赤身の多い、ヒレの真ん中にある希少部位だ。舞は神戸牛ハンバーグがお気に入りだった。だが、この日は、明石鯛のソテーを注文した。まだ、肉を食べる気にはなれなかった。


 食事中は、大学院の授業内容や、他のセクションの入院食について話した。


 食事が終わると、食後の飲み物が運ばれてきた。優子はウェイターに、打合せがあるから、一時間ほど二人にして欲しい旨を伝えた。ウェイターが、ワゴンにセットしたコーヒー・ポットと水差しをテーブル近くまで運び、敬礼して立ち去った。お屋敷の執事を連想させる、初老の紳士だった。名札は「坂下」となっていた。


 舞は昨日の事情聴取の報告に入った。被疑者の名前や年齢、出身大学などを掻い摘んで話した。住所の町名に「神」が付くこと。ボルテキセチンの副作用で、突飛な行動を起こした、という仮説も披露した。


 優子の視線が、チラリと窓側に移った。甲山方面だ。舞は、直感的に神山町に鍵があると感じた。


 優子は、いつもの怜悧な表情に戻っている。被疑者の名前を伝えても、眉一つ動かさなかった。面識のない人間の名前を聴いても、ヒトは興味を示さない。優子は、噂話を聞き流すように「それから?」を連発するだけだった。


 舞が一通り話し終えると、優子が脚と腕を組んだ。


「警察は被疑者の住所が分かっているから、近所に聞き込みをしているでしょうね」


 優子は窓の景色を眺めながら、「佐伯ねぇ」と、ポツリと呟く。


 舞は、椅子に浅く座り直し、前のめりになった。


「過去の患者さんで、心当たりがあるのですか?」


「ありふれた苗字だからね。それに白嶋はくしまと白姫しらひめだったかな? 灘の造り酒屋の創業者一族も佐伯家だったよね」


 舞と親しい友人知人に、佐伯姓はいない。だが、阪神間と神戸市東灘区・灘区には佐伯姓が多いと聴く。舞が学生のころも、同じ学年や他学年に、佐伯姓の生徒が存在した。


 西宮市の今津町から、神戸市の灘区にかけて、『酒蔵通り』と呼ばれる通りがある。《灘五郷》の名で全国的にも知名度がある。現代も、大小様々な酒蔵が軒を連ねている。


 中でも一番古い酒蔵が白姫だ。諸説はあるが、創業は室町時代と伝わっている。伊勢神宮御料酒としても有名だ。今も、昔ながらの実直な製法を貫いている老舗中の老舗だ。


 江戸末期には功績が讃えられ、名字帯刀が許された。それが佐伯姓の始まりだ。


 一方、明治後期に白姫から暖簾分けで創業したのが白嶋だ。白嶋は戦後の高度成長期に、『ワンカップ白嶋』がヒット商品となり、一部上場企業の仲間入りを果たした。


『ワンカップ白嶋』は、安価なカップ酒だ。醸造アルコールや輸入米で、歴史ある灘五郷の味を再現している。日本酒通の者からすると、模造品に過ぎないだろう。だが、『ワンカップ白嶋』の収益で、倒産の危機にあった多くの酒蔵が救われた事実もある。佐伯姓が多くなるのも頷けるエピソードだ。


 優子が、腕をテーブルに乗せて、舞の顔を見る。


「阪神間の佐伯姓を調べるのは、素人だと困難でしょうね。せめて、直系の家系だとか、白嶋側か、白姫側かでもわかればいいけど」


 優子は無意識なのか、また甲山方面に眼を向けた。佐伯と聴いて、灘の酒蔵が連想できるのは、日本酒を嗜むからか? 舞は優子の機転の早さに、感心した。


 優子が、悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「治験薬のリストね。院内LANの格納先に心当たりがあるから、探しておくわ」


 舞は眼を大きく見開いて、優子を見た。優子が続ける。


「尼宝女子大の薬学部には、治験薬の応援依頼はしてないはずよ。阪神間の処方薬局に卒業生が就職している可能性は高いけど、治験薬は薬局に回らないからね」


「医師から直接、患者さんの手に渡るのですね?」


「委任状にサインしてもらったら、違法ではないからね」


 治験薬は、舞の専門外だ。舞は治験薬を管理した、北島楓の姿を思い返した。優子はどう思っているのだろう? 疑問と同時に口が動いた。


「治験薬の管理は、北島楓さんが担当しましたよね。彼女も尼宝女子大出身の薬剤師です」


 優子の表情は「だから何?」と言いたげな、冷やかなものだった。


「被疑者の佐伯と北島さんに面識があるか? これも阪神間の佐伯姓の、どのご家庭に桐花さんがいるか? を探すのと、同じぐらい困難でしょうね」


 幼稚な考えだと貶されても仕方がない。だが、素人考えの、ほんの小さな疑問が、解決の鍵を握ることもある。舞は優子からも大きな収獲があった、と感じた。


「警察は、被疑者の精神鑑定の詳細を教えてくれません。錦城先生は、何か仰っていましたか?」


「舞さんの推論通り、何か隠したいのかもね」と優子が、微かに口元を歪ませた。


「治験薬は、患者の手元に渡るまでは、管理が厳重よ。委任状にも『他者への譲渡は禁止』と明記してあるし。だけど、患者が他の人に渡しているかまでは、管理できないでしょう」


「入院患者は医療スタッフが管理しますけどね。外来の患者さんなら、薬の自己管理は、難しいでしょうね」


 優子は、コーヒーを飲み干して、コーヒー・ポットに手を伸ばす。


「元々、自殺願望のある患者や情緒不安定の患者が、モーニスコプラの副作用の説明を聴いたと仮定するよね。日数分を束にして渡されたら『自殺できるチャンス』と考える可能性が高いでしょ? だから薬物療法は怖いのよ」


 街の心療内科クリニックに掛かっている患者は、家族や医師の目が行き届かず、薬の大量服用による自殺を遂行しやすい。そのため、自殺未遂の確率が高いのが現状だ。


「優子先生も、被疑者の行動は、薬の副作用だと思うのですね?」


 優子の眼が三白眼になった。冷酷な笑みを浮かべて首肯する。


「錦城先生は、被疑者の元の性格が我儘だと考察しているのよね。気に入らない事柄が出てきたら、短気を起して『死んでやる!』とか『殺してやる!』と口走る人がいるでしょう? あの類だと」


「錦城先生の考察が押し通されると、被疑者は単なる短気な人間の犯行となって、有罪になるのでしょうか?」と舞は、質問を続ける。


「可能性は高いわね。警察も阪神間の精神鑑定は、芦屋医大に頼っているし。錦城先生は、そこのトップで、警察の上層部とも、製薬会社の上層部とも繋がっているでしょうし」


 優子は両掌を上に向け、肩を竦め、「お手上げ」のポーズを取る。


「何としても、食い止めないとね」


「私が直接、錦城先生に質問しに行くのは可能でしょうか? 研究論文の一事例として」


「いいと思うわ」と言うと、優子の口角が、静かに上がる。


「手ぶらじゃ答えてくれないわよ。錦城先生が喜ぶ情報や菓子折りを持って行くことね」


「錦城先生は、私が第一発見者なのを、もう、ご存知なのですか?」


「誰かまでは、知らないでしょうね」


「証言内容は、警察から聴いていますよね。名乗り出ようと思います!」


 と舞が言うと、優子が頬杖を突いて、舞の眼を覗き込んだ。


「錦城先生の立場なら、是非とも第一発見者に会いたいでしょうね。錦城先生も、大学院の講義を持っているし。無下に学生の面談を断らないはずよ」


「早速、アポを取ってみます!」


 優子の眼が、また三白眼になり、妖艶な笑みを浮かべた。獲物を虎視眈々と仕留める、美しいハンターのように思えた。


 舞は、リュックからノートPCを取り出した。起動するとすぐに、錦城へ、面談依頼のメールを送信した。

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