第二章 06 大学図書館と解剖医

 芦屋医大に、一限目の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。舞は教育棟の四階、小教室にいた。土曜日の授業なので、出席者は、七名のみ。病理学系の科目だった。


 担当講師が眠たげな声で教科書を読み上げる退屈な授業だった。大学院の授業も、大学の授業とさほど変わらない。内容がさらに専門的になった程度だ。


 舞は小教室を出ると、五階の図書館に移動し、医学百科事典コーナーに向かった。頸椎の詳細を、調べたかった。頸椎は、浮浪者殺人事件の被害者が刺された部位だ。だが、該当の書籍は空欄だ。念のため、右隣の本を見ようと思い、手を伸ばした時だった。


「目当ては、この本かな?」


 舞は、微かに顔を左に向け、横目でそっと声の主を見た。荒垣だ。分厚い事典を右手に抱えて立っている。昨日、喜多川のPC画面から、荒垣が被害者を解剖している事実が分かった。荒垣も部位の詳細を調べているのだろう。舞は、荒垣に向き直った。


「今日は、お休みの日ですよね?」


「白衣を着てないだろう。休みの日に、図書館に来ただけだ」


 荒垣は、声をさらに落とし、事典を肩の位置まで持ち上げる。


「この本の内容で、君の意見を訊きたいのだけどね」


 荒垣は職業柄か、察しが良い。舞が何を調べ回っているのか、見当がついたのだろう。舞にも、荒垣に質問したい問題点が山ほどあった。機会を伺っていた舞は、チャンスだと思った。荒垣は視線を落とすと、低い声で続けた。


「今からいいかな? 図書館はサイレントだから、四階の大学院自習室に来てくれ」


 図書館にいる時点で、忙しいふりは通用しない。優子とのランチまで、まだ一時間以上ある。荒垣は事典を抱えたまま、ゲートから出て行った。


 大学院自習室に入ると、荒垣がパソコンの前に座っていた。土曜日に登校してくる院生は少ない。土曜日の大学院自習室は、いつも貸し切り状態だ。


 舞が荒垣に近付くと、机の上には開いた事典があった。頸椎の拡大図のページだ。舞は一礼して、荒垣の隣のパソコン・チェアに座った。回転式の椅子になっている。


 荒垣は座ったまま、舞のほうへ向きを変えた。


「これが見たかったのだろう?」

 と言いながら、荒垣は開いた事典をサイド・テーブルに置き換えた。


 舞は、眉根に皺を寄せて、荒垣の眼を見た。荒垣が笑みを漏らす。


「単刀直入に聴く。木曜日の早朝に、何を見たか、教えてくれるかな?」


 舞は、さらに顔を顰め、「何を根拠に、そう仰るのですか?」と、冷静に訊き返した。


 荒垣の視線が鋭くなる。

「君が俺に質問したい真意と、合致すると思うけどな。木曜日の出勤時、君を見かけた。黒いセダンから降りて来た。昼休み、意外な場所で君を見かけた。君の仕事とは縁のない、九号館の裏口だ。その時、裏口には黒いセダンが駐車していた。朝のセダンと、ナンバーは同じだった」


 荒垣は言葉を切ると、舞の顔を覗き込むように見詰めた。


「お聴きになったのですか?」

 と舞が訊ねると、荒垣が口角を上げた。


「何をだ? 奴らは、何も喋らないよ。俺の推測だ」


 荒垣は、木曜日の昼休みの時点で、舞が第一発見者だと見抜いたのだろう。舞はフッと息を吐くと、肩を楽にした。今度は舞が口角を上げた。


「わかりました。では、私からも質問があります。木曜日の午後、ナイフの柄から検出された指紋は、濃かったですか?」


 荒垣が視線を落として、脚を組んだ。

「油分は少なかった。汗の成分は、検出できるだろうね」


「結果は、いつ、分かるのですか?」


 荒垣が怪訝な表情を浮かべる。

「被疑者の分析までは、要請されてないよ」


「サンプルは保管していますよね? 汗の成分から、薬物は特定できませんか?」


「指先の汗を分析しても、服用している薬物の検出は難しい。指紋なら、もっと難しいだろうね。何が検出されたら、ビンゴなのだ?」


「ボルテキセチンです」と、舞は答える。


「例の治験薬か」と言うと、荒垣がパソコンを操作する。ボルテキセチンの化学式が、モニター画面に映った。


「新しい化合物だし、日本では例が少ない。余計、難しいだろうね。こちらも訊きたい事があるしなぁ。希望を叶えられるよう、尽力してみるよ。さてと」


 荒垣が、舞の顔を見る。

「被害者が刺される前の様子を、教えてくれるかな?」


 舞は頷くと、事件当日の早朝、被害者の高鼾が響いていた事実を話した。


 荒垣が納得顔になる。

「高鼾の症状は、やっぱり高血圧だな。プラークも多かったし」


 独り言のように呟くと、荒垣が舞の顔を見る。


「役に立ったよ。もう行っていいよ。君は優子先生とランチだろう?」


 舞は顔を、また顰めた。


「ヒトの行動はパターン化しているからね」と、荒垣はニヒルに笑った。


「この事典、写メを撮らせてもらいますね」と言うと、舞は立ち上がった。


 荒垣が左手を上げながら、口を開く。

「いつか、優子先生とも合同で話し合いをする日が来るだろうね」


 舞はスマホを操作しながら、「お得意の推察ですか?」と、荒垣に訊いた。


 荒垣が得意げな笑みを浮かべる。

「君なら、そのうち意味がわかるだろう。お疲れさま」


 大学院自習室を出ると、舞はエレベーター・ホールに向った。


 荒垣は敢えて、口止めをしなかった。だが、舞は荒垣との会話を、優子に報告する気にならなかった。優子には、昨日の事情聴取の報告だけでいい。後ろめたさは感じなかった。

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