第二章 05 事件当時の白い女の足取り

 土曜日の朝、舞は五時に起床した。九月の最終週なので、早朝は肌寒い。昨晩、ノートに纏めた疑問点を、反芻しながらウォーキングに出かけた。


 マンションを出て、阪急甲陽園線の踏切を渡る。夙川に架かる苦楽園口橋を進むと、左折して夙川の上流方面に向かった。遊歩道は歩かず、夙川沿いの《夙川さくら道》と呼ばれる車道を歩いた。目的地は、神園町だ。


 昨日、《西宮警察署》に出頭した際、喜多川のパソコン画面を凝視していた。佐伯桐花の住所は、西宮市内の「神」が付く町名だった。夙川沿いなら「神園町」。甲山と北山の中間に位置する「神山町」もある。神山町なら二つの山の麓になるため、夙川から離れる。


 どちらの山も標高は低いが、神山町は急な坂道が続く邸宅街だ。個性豊かな洋館から武家屋敷風の日本家屋まで、「高台のお屋敷」と呼ばれるのに相応しい家々が見物できる。


 苦楽園口橋から三百㍍ほど進むと、神園町に入った。夙川さくら道に面して、アンティーク家具店やカフェ、ベーカリーなどの店舗が点在する。どの店も一軒家を改造した洒落た店舗ばかりだ。神園町も、ほとんどが一軒家で、低層のマンションが数棟あるだけだ。神山町よりも駅から近いため、敷地の狭い三階建ての建売住宅が並ぶ。


 舞は歩きながら、桐花の個人情報を思い返した。


――尼宝女子大学薬学部・休学中。


 尼宝女子大学は、尼崎市と宝塚市を結ぶ幹線道路『尼宝線』沿いに位置する総合女子大学だ。数年前に、日本の女子大で初となる法学部を設置してから、偏差値が急上昇している。設立当時から薬学部・看護学部・家政学部・教育学部・文学部・音楽学部がある。昔から、手に職を着けたい女性が進学していた。


 就職率が抜群のため、舞も大学受験の際、尼宝女子大への進学を検討した。だが、中学から通っている、神戸青谷女学院への愛校心が勝った。そのまま内部推薦で、家政学部栄養学科に進学した。


 薬剤師の北島楓も、尼宝女子大の薬学部出身だ。芦屋医大に勤務する薬剤師は、約七割が芦屋医大の薬学部出身者だ。女性の薬剤師は、毎年数名、尼宝女子大の採用枠があると聴く。出身大学の者が幅を利かせるため、楓の仕事上の苦労は大いに想像できた。


 舞は、合同カンファレンスや大学院の授業で見かける、楓の緊張した面持ちを思い返した。楓は三十一歳。被疑者の佐伯桐花は二十六歳。五歳差だと、同じ大学でも面識は、ないか?  薬剤師を養成する薬学科は六年制。単純に計算すれば、楓が六回生の時に、桐花は一回生だ。桐花の謎を解く手掛りの一つとして、調べてみる価値は一応ありそうだ。


 舞は、電信柱の街区表示板を見上げた。『北名次町』になっている。神園町が夙川に面しているのは、数ブロックだけだった。神園町は、緩やかな坂が続く。坂道を進むと、阪急甲陽園線の終着駅、甲陽園駅に繋がる。舞は、そのまま、神園町内を歩いた。


 この辺りは、サイクリングで時折、通る。だが、ゆっくりと歩いた覚えがない。一昔前は電話帳が存在した。だが現在は、個人情報の観点からか、見かけなくなった。効率よく探す術は、ないものか?


 目撃した時の、桐花の行動を反芻した。桐花は突然、舞の視界に飛び込んできた。遠目ではあったが、距離にすると三十㍍ほどだ。


 舞は、坂道の上方まで進むと、来た道を見下ろした。神園町から夙川さくら道に出る道は二本。舞が今こうして歩いている坂道と、線路沿いの道だ。線路沿いの道は、なだらかだ。公立中学校のグラウンド沿いでもある。


 グラウンドに続いて、鬱蒼とした欅林の一画もある。公立中学校の敷地内ではない。中に善意のベンチがあり、地元の人が森林浴や犬の散歩で入れる場所だ。


 舞は坂道を下り、線路沿いの道に向った。桐花の身になって考えてみる。一直線に走って、夙川の桜並木に突入するには?


 桐花の手首には、リスト・カットの痕はないか? 桐花は副作用で突飛な行動に出て、ペーパー・ナイフを持って家を飛び出す。突然、死にたい衝動に駆られ、夙川に出た。走っていると、浮浪者の鼾が聴こえてきた。不快な音だから、ナイフで刺して止めた……。


 精神科に勤務していると、薬の副作用で朦朧とした患者が、様々な妄想を口走る。舞もシナリオを組み立ててみた。

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