第三章 22 嵐の前の静けさ

 今日の回診は、平和だった。だが、舞には、嵐の前の静けさだと思えた。


 精神科病棟を出ると、舞と優子は、教育棟に移動した。


「私の研究室に、松花堂弁当を届けてもらうから、昼食にしましょう。お互い、時間がないからね」と、優子が言った。


 優子の研究室に入ると、優子が内線を取り上げた。五分ほど経つと、配達員が松花堂弁当を届けに来た。木箱に掛けられた和紙には、《御影ホテル 摩耶》と印字されていた。


 優子が一口、食べ終えるのを見届けると、舞も箸を付けた。


「御影ホテルの本店は、よく利用されるのですか?」と、舞は訊ねた。


「子供のころ、親族の集まりで、たまに行ったかな」


 優子が雑談に応じる機会は、滅多にない。質問をするなら今だ。舞は、質問を重ねた。


「子供のころから、お医者様になりたいと、思われていたのですか?」


 優子の表情を、そっと窺った。舞を訝しんでいる様子は、ない。


「両親も医者だったし、親族も医者が多かったから、自然の成り行きかな」


「優子先生のお母様の世代で、女医さんとは、かなり優秀ですよね」


「母の実家も病院だったからね」と、優子が何かを懐かしむ表情で答える。


 舞は、展示室や写真集で見た、茂森立樹の家族写真を思い返した。


「お母様の影響が、大きかったのですか?」


 と舞が訊ねると、優子の視線が、一瞬、泳いだ。


「どうかな? 結局、体内も皮膚も、薬物治療が頼りだからね。医学部に進学してから、薬物以外で治療できる術を学びたいと思ったの。母は、レーザーとか医療機器が好きだったみたいね」優子は言葉を切ると、話題を変えた。


「そういえば、荒垣君。大事な時期に、食中りとは。意外とプロ意識に欠けるのね」


 優子の眼が、三白眼になっていた。


「藤原先生のお話では、三日ほどで回復するようです」


「まぁ、明日の錦城先生の脳解剖には、間に合ったし、問題はないと思うけど。さてと、食事は、だいたい済んだかな?」


 優子の実家の話は、これ以上、訊かないほうが賢明だ。優子は荒垣を引き合いに出し、話題を変えている。だが、優子の母が、レーザー治療に関与していた事実は判明した。皮膚科医だと想定できる。優子は、立樹の孫だと、舞は確信した。


 松花堂弁当の木箱をテーブルの脇に移動させると、優子が舞の顔を見る。三白眼は鳴りを潜め、いつもの優し気な表情だ。


「錦城先生の胃の内容物の解析、角倉君が手伝ってくれたそうね。その時に、荒垣君のお父様と錦城先生の関係、聞かなかった?」


 舞は、しっかりと優子の眼を見て、頷く。


「藤原先生から、お名前も伺いました。薬物の副作用と神経の関連を、研究をされていたそうですね」


「栄養学と薬学と、学問の違いはあるけど、舞さんと似たようなテーマを研究していたようね。荒垣君は、あなたの研究テーマに、さぞかし興味を持っているでしょうね」


 舞は、愛想笑いを浮かべた。


「昨晩、荒垣先生のお父様の論文を検索しました。まだ、拾い読み程度ですが、ヒントは多いと思いました」


「学内LANだと、一般公開されていない論文も、探せるでしょうね。けど、発表されていない論文も、あると思うよ。抹消されていた論文や推察が、ご本人の死後、明るみに出て、乱用されたら、どうなるでしょうね?」


 舞は、昨日、藤原や角倉から聞いた、話の内容を反芻した。優子の亡き夫も絡んでくるので、発言には注意が必要だ。


「新薬の発表に、関連するのですか? 効果があっても、副作用が強すぎるとか……」


 と舞が問い返すと、優子が、頷きながら、テーブルの上で掌を組んだ。


「研究者にとって、自身の研究結果は、子供みたいなものだからね。もし、遺族がその内容を承知していたら、錦城先生に復讐したいと思うかもね」


 舞は、内心、驚いた。表情を悟られないよう、首を傾げた。


「優子先生は、錦城先生の死を、他殺だとお考えなのですか?」


「栄養分析でも、錦城先生の糖尿病は明らかだったんでしょう? それも急性の、糖尿病ケトアシドーシスよ。舞さん、二週間ほど前、錦城先生に面会を申し込んだよね。菓子折りを持って。氏鉄饅頭を選んだのは、自分で? それとも、誰かからのアドバイス?」


 錦城の好物が氏鉄饅頭である事実は、当日、荒垣に質問に行った際に聞いた。荒垣の話では、以前、角倉から聞いたようだった。


「風の噂を思い出して、氏鉄饅頭にしたのです」と舞は、お茶を濁した。


 優子が、哀れむような視線で、舞の顔を見た。


「荒垣君に同情するのも、無理ないよね。浮浪者殺人事件の被害者を解剖しているし、お父様の研究テーマも似ているし。もしかして、彼の食中りは、自作自演かもね」


 荒垣が錦城を恨んでいるようには、思えなかった。喜多川も、荒垣は除外してもいい、と話していた。だが、優子が憶測だけで発言するとも、思えなかった。


「そう仰る根拠は、何ですか?」と舞は、訊ねた。


「荒垣君は、ハッカー並みに、プログラム知識があるそうね。院内の教職員や患者なら、検査の結果は、すぐに見つけるでしょう」と、優子が冷ややかに言い放つ。


「錦城先生の最新の健診結果は、約半年前のものでした。糖尿病ケトアシドーシスの疑いは、その後、強まったと推測できます」と舞は、やんわりと反論した。


 優子は冷たい視線のまま、笑みを浮かべる。


「半年前の健診では、まだ血糖値が正常値範囲内だったかもねぇ。けど、院内にいれば、錦城先生の指紋や、唾液は、採取しやすいでしょう? 臨床検査技師に頼まなくても、解剖実習室なら、検査キットも揃っているし」


「お言葉ですが、それが、荒垣先生の自作自演に繋がるのでしょうか?」


 と舞が言うと、優子の眼が、お得意の三白眼に変わった。確信がある時の、表情だ。


「食中りは、昨日のランチ後、すぐよね? 十三時に、舞さんが手伝いに来る予定になっていた。食中りをアピールするには、ちょうどいいよね? 錦城先生の栄養分析で、糖尿病の裏付けが証明される前に、逃げた、とも考えられるし」


「昨日は、ずっと会議中でしたよね? 荒垣先生が倒れた時間まで、よくご存知ですね」


 舞は言い返すと、優子の表情を観察した。動揺は、見られない。


「一応、私も教授なのよ。ご機嫌取りなのか、中には、色々と報告してくれる後輩もいるのよねぇ。死なない程度の毒なら、すぐ手に入るわよね。藤原先生が見抜いたとしても、公表はしない。その辺りも、計算に入っていたと思うのよ」


 優子は、荒垣の吐瀉物を解析した事実は知らない。だが、優子の推論が事実だと仮定したら?  ここに来て、パズルのピースが、また散ったと、舞は、感じた。


 優子の指摘通り、荒垣には、錦城を亡き者にする動機がある。今までの舞なら、優子の考察や意見は、絶対であった。優子は、人の悪口を言うタイプではない。憶測で話すタイプでもない。だが、優子の説を信じると、荒垣の行動が疑わしくなる。


 押し寄せる不安を払いのけ、舞は立ち上がった。


「そろそろ、午後の仕事の準備があるので。失礼いたします」


「信じていた人に、疑いの目を向けるのは辛いよね。でも、真実を見抜く目も必要よ」


 哀し気な表情で、優子が続ける。


「浮浪者殺人事件の被疑者だけどね。精神鑑定は、辛嶋先生が引き継ぐから」


 舞は、眉根に皺を寄せた。


「辛嶋先生は、私が第一発見者である事実は、ご存知なのですか?」


「私からは伝えてないわ。質問したいなら、また名乗り出てみたら?」


 優子は、優し気な眼差しで、舞を見詰めていた。


「優子先生からの宿題、熟考してみます」舞は、昼食の礼を述べると、退室した。


 廊下を歩きながら、昨日の角倉と藤原の話を思い返した。優子の亡き夫の研究結果を悪用された事実が、本当なら? 錦城を亡き者にする動機は、優子にもある。


 過日の荒垣とのやり取りも、思い返した。荒垣は、優子の言動や態度を、快く思っていないようだった。荒垣と優子は、錦城に対して、共通の確執があった。お互いに疑いを抱くのは、構わない。だが、舞は、どちらかが他殺を実行したとは、思いたくなかった。

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2024年9月20日 08:13

ランビエの絞輪 久遠 三輪 @miwakuon

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