第三章 21 栄養分析

 火曜日の朝八時半。舞は栄養部のオフィスにいた。まだ定時前なので、舞と小絵の二人だけだった。二人は、別室のサーバー室に移動した。サーバー室に、栄養分析ができる大型パソコンが設置してある。


 錦城の胃の内容物の特定は、済んでいる。舞は、慎重に大型パソコンを操作すると、共有フォルダを開いた。昨日のデータを、一旦、エクセルで開く。その後、栄養分析ソフトでも認識できるよう、保存形式を変更した。


 栄養分析ソフトを立ち上げると、錦城の胃の内容物の詳細が、モニターに表示された。小絵が、モニターに顔を近付けて、食い入るようにデータを見ている。


「錦城先生は、過体重ですが、BMI値は三十以下なので、肥満ではないですよね?」


「肥満云々よりも、短時間に消化の悪い物を食べ過ぎているのが問題ね。今朝は、他の管理栄養士が揃わないから、朝礼はスキップします。このまま分析を進めましょう」


 と言うと、眼を細めながら、小絵が厳しい表情でモニターを見詰めた。


「恐らく、糖尿病性ケトアシドーシスね。インスリン注射を必要とした時期は、ここ数ヵ月か半年ぐらい前からかな」


 舞は、眉根に皺を寄せて、小絵の顔を見た。小絵は、主に糖尿病患者の食習慣について熟知している、ベテランの管理栄養士だ。


「錦城先生は、急逝の糖尿病だったということですね?」と、舞は確認した。


 糖尿病性ケトアシドーシスとは、急性糖尿病の正式名称だ。《ペットボトル症候群》とも呼ばれる。大量の加糖飲料や糖分の多い食品を大量に摂取し続けると、数ヵ月で発症するケースがある。


 糖質過多で、体内の高血糖状態が続くと、膵臓が機能不全を起こし、インスリンが欠乏する。そのため、インスリン注射で速やかに、インスリンを補う必要がある。


 インスリン不足のまま放置しておくと、食事から摂取したブドウ糖は、そのまま血液に流れる。そのため、糖質が筋肉などの他の組織に移行しない。


 高血糖状態の血液は、ドロドロだ。毛細血管だけではなく、大動脈の循環も滞る。やがて心臓や脳の血管にも血栓が形成され、脳梗塞を起こす。


 舞は、糖尿病と脳梗塞の関連も、小絵に確認した。


「錦城先生の直接の死因は、脳梗塞でした。やはり、《アテローム血栓性脳梗塞》になりますよね? 心因性の脳梗塞の可能性はどうでしょうか?」


「インスリンが不足すると、細胞や神経も正常に機能しなくなるからね。心因性も充分に疑えるわね」


 言葉を切ると、小絵が続けた。


「錦城先生が声を荒げるのは、前からだったけど。院内の噂によると、ここ半年ぐらいで、頻度が高くなってるのよ。新薬の認可や発表で、気が急いていたのでしょうね」


「焦燥感を紛らわせるために、甘い物の摂取が多くなって行ったと考えられますね」

 と、舞は口を挟む。


「辛嶋先生からのご依頼は、脳梗塞の種類の特定ではないの。脳梗塞に至った原因を確認したいそうよ。なので、糖尿病が疑わしい、と報告しておきましょう。PFCバランスで見ても、糖質量が圧倒的に多いからね」


 PFCバランスとは、タンパク質、脂質、炭水化物の英名の頭文字を取った呼び名である。一般に、この三つの栄養素を、三大栄養素と呼ぶ。糖質は、炭水化物に分類される。


 パソコンを操作すると、舞は、錦城の健康診断結果を表示させた。小絵の顔を見る。


「この健診結果は、今年の五月のものです。約半年前です。錦城先生の甘味の摂取量が、まだ多すぎず、健診結果では上がっていなかった、とも解釈できますよね?」


 小絵が、モニター画面に顔を近付けて言う。


「血糖値は、ギリギリ正常値範囲内だけど、高めだね。健診時の血液検査は、前日の夕食と当日の朝食を抜くから、当てにならないのよね。実際は、もっと高かったかもね」


「荒垣先生や角倉先生も、同じ点を指摘されていました」と、舞は言った。


 小絵が、再度、モニターに顔を近付ける。


「過体重と高血圧以外は、どの数値も、C判定ね。ギリギリ正常値範囲内。違和感はあるけど。あり得ない結果でもないわね」


 舞は、小絵が発した「違和感」が、気に懸かった。健診結果の「偽造」を、連想させた。


「急性の糖尿病だと、なおさら、健診結果では分かりませんよね?」と、舞は訊ねた。


「健診が終わった後から、錦城先生の糖質過多が酷くなった場合、この健診結果は、参考にしないほうが賢明ね」と、小絵が答えた。


 舞は頷きながら、パソコンを操作する。画面を切り替え、栄養分析結果を保存した。


「明日、錦城先生の脳の解剖が行われるようですね」

 と舞が言うと、小絵が、顔を顰めていた。


「CTスキャンで、脳梗塞の確認は済んでいるからね。後は、神経とか血管とかを調査するのでしょう」


 小絵の許可を得ると、舞は、錦城の栄養分析結果を、関係者にメールで知らせた。


 プライベートのスマホから、喜多川にもメッセージを送った。錦城は、高確率でインスリン注射を必要としていた。定性分析や栄養分析の結果も、喜多川なりの考えで、答えを探すだろう。


 舞が、メールを整理していると、優子から返信があった。今日の回診後、ランチを兼ねた打合せをしたい、と記されている。場所は、優子の研究室だった。

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