第三章 20 優子の旧姓
舞が、栄養部のオフィスに戻ると、小絵が残っていた。
「荒垣先生の食中り、原因は、分かったの?」
「藤原先生のお話では、二~三日で回復するみたいですよ」
「忙しいから、古い物でも食べたのかしら? まぁ、休息が必要だったのよ」
荒垣の食中りの原因物質を、小絵に話す訳にはいかない。舞は話題を変えた。
「錦城先生の胃の内容物の確認は、全て終わりました。角倉先生が、手伝いに来てくれましたよ」
「今日の精神科は、教授陣がずっと会議だったから。職員や医療スタッフは、平和だったみたいね。で、どうだったの?」と小絵が、興味深げな表情で、舞の眼を見る。
「錦城先生は、ほぼ糖尿病だと言い切れる状態でした」
「いつから、インスリン注射が必要な状況だったんだろうね?」と、小絵が呟く。
「角倉先生も、同じ疑問を持たれていました。健診結果に上がってなかったので、気付かなかったようですが……」
「共有フォルダに、もうデータは入ってるよね? 明日の朝、一番に栄養分析しましょう。優子先生は、興味ないみたいだから、事後報告でいいでしょう」
舞は、頷くと、帰り支度をした。
「そういえば、部長は、新卒で芦屋医大に就職されたのですよね? 優子先生の学生時代も、覚えていらっしゃいますか?」
首を傾げながら、小絵が白衣を脱ぎ、腕に掛けている。
「当時は、まだ、女子学生が少なくてね。男子学生に『姫』って呼ばれていたわね」
「お綺麗だからですか?」
「それもあるけど。旧姓が姫なんとかさん、だったと思うのよ」
小絵が、床を見詰めて、何かを思い出している。
「そうそう、
「姫崎美容外科が、優子先生のご実家かもしれないと?」
と舞が訊ねると、小絵が、首を横に振る。
「その辺りが謎なのよ。優子先生の噂は、ほとんど耳に入らないからね。お住まいも、誰も知らないでしょう?」
「確かに、謎めいた方ですね」舞は、何度も頷くと、小絵の顔を見た。
「図書館に寄りますので、先に出ますね」と、話を打ち切った。
小絵が、「無理しないようにね」と、労ってくれた。小絵からも、思わぬ収獲があった。優子の旧姓が、判明したのだ。
図書館は、二十一時までだ。図書館にも、芦屋医大の歴史コーナーがある。創設者の伝記や、古い関連書籍が探せるだろう。展示室で見た、家族写真の少女が、目に焼き付いていた。尋常小学校時代の創設者と、瓜二つだ。単なる、他人の空似とは思えない。
図書館に入ると、利用者は疎らだが、学生やインターンが数名いた。舞は、芦屋医大の歴史コーナーに向かった。十年前に刊行された、創設者の伝記が見つかった。著者名は、茂森直樹になっていた。創設者の長男だ。舞が就職した年に、他界したと記憶している。
他に、神戸の新聞社が刊行した、茂森立樹の写真集があった。瑞宝章記念特集のものだ。立樹の死後、医学の発展と医大設立の偉業が讃えられ、翌月、立樹に《勲三等瑞宝章》が授与されていた。
舞は、伝記と写真集を手に取ると、コーナーを離れた。本棚の陰から、人が移動する気配を感じた。さほど気に留めずに、通り過ぎようとした。
その時だった。「誰かに見られているような感覚」に陥った。以前、感じた時は、マウンテン・バイクでの移動時で、黒いタクシーの存在があった。今回は、図書館だ。舞が振り返ると、遠目に女子学生の二人連れが視野に入った。舞の近辺に、人はいないようだ。
舞は、首を傾げながら、テーブル席に戻った。壁時計を見ると、七時過ぎだった。図書館の閉館まで、二時間近くある。席に着くと、写真集を、前から順番に、じっくりと見た。ほとんどが、展示室で見た写真と同様だった。
目当ての、大家族の集合写真のページになった。立樹の四人の子供が成人し、立樹の数名の孫が映っている。写真には、立樹の母と妻、四人の子供の名が記されていた。
少女の背後に映っている女性は、立樹の長女だった。第三子となっているので、現理事長、正雄の姉に当たる。孫の名は記されていなかった。立樹の長女の名は、加代となっているが、苗字は記されていない。加代の夫らしき人物も映っていなかった。
伝記書籍も開いた。所々、小さな白黒写真が挿入されている。舞が目次を確認すると、《念願の長女誕生》の項が、目に付いた。ページを捲ると、加代の誕生や略歴が、簡潔に紹介されている。大阪の私立高槻医大で学び、皮膚科医になったようだ。二十七歳で、大学の同級生と結婚し、一女を儲けたと、記されている。
そこにも、結婚後の苗字や、娘の名は記されていなかった。二〇一五年に他界している。だが、ヒントは得られた。加代の夫は、高槻医大の同級生だ。
姫崎美容外科のホームページを見れば、歴代の院長名や、医師の学歴がわかるだろう。
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