第三章 23 警察捜査の再開
水曜日の朝になった。舞が、カフェ《ブリック》の店内に入ると、前回と同様、壁側の席に喜多川が座っていた。喜多川が舞の顔を見て、微笑む。
「例の分析結果二点、こちらでも調べました。ある方からも、極秘データを預かりました」
分析結果二点とは、錦城の胃の内容物と、荒垣の吐瀉物の解析結果だ。舞が喜多川に連絡したものだ。院内の就業規則も鑑みた。だが、事件性があった場合、警察に事実を隠すと、後で問題になると思えた。
喜多川も勤務外で、錦城の他殺説を単独で調べている。極秘データは、錦城の真の健診結果だろうか。舞は、声を落として質問する。
「改竄の事実が判明したのですか?」
喜多川が、首を横に振る。
「いえ、約二ヶ月前のデータです。唾液と毛髪のデータでした。糖尿病患者のものでした」
舞は、眉根に皺を寄せる。錦城が糖尿病であった事実は、確定だ。
「インスリン注射が必要な者に、指示をしないのも罪ですよね?」
「ご本人が診察を受けていた事実がないので、難しいかもしれません。それと、お話が変わりますが」喜多川が言葉を切ると、舞の眼を真っすぐと見た。
「以前、例の被疑者の足取りを考察されていましたね。大変、参考になりました。本当に」
喜多川は、最後の「本当に」を、強調した。喜多川の立場を考え、舞はそれ以上の質問を控えた。舞は、笑みを浮かべて、別の質問をした。
「今でも被害者を解剖した医師は、除外してもいいとお考えですか?」
喜多川の視線が、一瞬、鋭くなった。
「何か、思い当たりましたか?」
舞は、荒垣の父親と錦城の確執を、掻い摘んで話した。喜多川は背筋を伸ばし、黙って耳を傾けていた。続いて、優子の亡き夫と錦城の確執についても話した。
喜多川が、時折り下を向いて、膝の上でプライベート用のスマホを見ている。舞の会話を録音しているのだろう。
「確かに、以前と状況は違いますね。ですが、想定内です」
舞が話さなくとも、喜多川は両者の確執を把握していたと思えた。
喜多川が、舞の眼を見て、「他に、お気付きの点はありませんか?」と言った。
舞の脳裏には、芦屋医大の創設者一族の家族写真が浮かんでいる。
「夙川の事件とも、医局長の急逝とも、関係ないかもしれませんが」
と舞が前置きをすると、喜多川の瞳孔が、大きくなる。舞は、声を潜めて、話し始めた。
「教育棟の最上階に展示室があります。大学の歴史や創設者の生い立ちも紹介されています。創設者の幼少期と、お孫さんだと思われる女児が、瓜二つだったのです。後者の写真は、家族写真で撮影時期は一九七三年でした」
喜多川は、舞から視線を外すと、天井を見詰めた。何か計算しているようだ。
「宇田川さんの近辺に、該当者がいるのですね。もしかしたら、重要な発見かもしれません。それと、先ほどの質問ですが。やはり、解剖した方は、除外してもいいと思います」
舞は、窓際席を見た。高齢男性の背中が、荒垣の姿と重なった。思わず、頬が緩んだが、すぐに顔を引き締めた。
「何が根拠か、お聞きしたいですが。お立場もあると思うので」
と舞が言うと、喜多川が頷き、小声で囁いた。
「被疑者の件ですが、宇田川さんに幾つか、確認事項がございます。明日の夕方にでも、署の私の席までお越しいただけますか?」
「捜査を続行されるのですね?」
「被疑者の当日の足取りが分りましたので。上からも調査の続行命令が出ました。それに我々は、ノートPCを持ち歩けないのでね」
舞は頷くと、口を開いた。
「最後にもう一つだけ。先日、図書館で調べ物をしていたら、例の『誰かに見られているような』視線を感じました。黒いタクシーは、関係ありませんでした」
「明日、お越しいただければ、何かヒントがわかるかもしれません」
喜多川は、意味深な笑みを浮かべていた。
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