第三章 24 解剖医の恋人?

 栄養部のロッカー室に入ると、舞は、急いで白衣を羽織った。ナース・シューズに履き替えると、調理室に向かう。いつもより三十分ほど遅くなったが、入院患者の朝食後のトレイを確認したかった。ワゴン置場の小部屋に入ると、優子がいた。舞は、内心、驚いた。


 優子に気付かれないよう、そっと入口の陰から行動を見守った。患者の食べ残しではなく、薬の包装シートを確認しているようだ。見てはいけないものを見たと、舞は思った。だが、自身の研究の調査もあった。一旦、廊下に出ると、笑顔を作った。


「優子先生、珍しい場所でお会いしますね?」

 と声を掛けると、優子が、顔を上げて、舞を見る。落ち着いた表情だ。


「ここに来れば、舞さんが朝食の食べ残しチェックをしていると思ってね。今日は、いつもの時間より遅かったのかな?」


 優子は、舞の前でも、薬の包装シート収集を止めなかった。舞は、ビニール袋を凝視した。薬名は新薬の《モーニスコプラ》だった。


「私にご用でしたか?」と、舞は訊ねる。


 優子が、ビニール袋を掲げて、「薬も記録してたよね?」と、舞に確認してくる。


「十日ほど前から《ジキレプサ》だった患者さんの薬が、《モーニスコプラ》に変更になりましたね」と、舞は答えた。


「薬は専門外なのに、よく気付いたね。十日ほど前なら、錦城先生が亡くなる直前ね。錦城先生が指示したのでしょうね」


 舞は、愛用のノートを捲り、「前々週の金曜日からですね」と、報告した。


 優子は、満足そうな笑みを浮かべて、舞を見た。


「さすがだね。舞さんは、気丈なだけでなく、地道な努力も怠らないよね。まぁ理系の研究は、忍耐が付き物だけどね。そういえば、荒垣君の容態はどうなのかしらね?」


 探るような視線で、優子が舞を見ている。


「今日で三日目ですから、面会は可能になるかもしれませんね」


「きっと、彼女さんも来るのでしょうね」


 舞は、一瞬、心が沈んだ。院内の噂では、女気がない、と聞いていたが、荒垣に恋人がいたのか? 優子に悟られないよう、笑みを浮かべながら、首を傾げた。


「どうでしょう? どの病棟に入院されているのか、藤原先生にお聞きしていませんし」


「荒垣君の恋人は、公務員みたいね。まぁ噂だけど。仕事上でよく会うと、情も移るよね」


 舞は咄嗟に、西宮警察署の喜多川の顔が浮かんだ。喜多川が、荒垣を除外してもいいと話したのは、恋人を守るためなのか? 喜多川は、ある人物から、錦城の極秘データを預かっていた。二ヶ月前の糖尿病患者のデータだった。唾液と毛髪から解析した結果だった。ある人物は、荒垣だろう。


 荒垣は、データを入手しただけなのか? それとも、計画的に、自身で錦城の行動範囲を確認し、唾液や毛髪を採取したのか? 唾液は、食後の割り箸を回収すれば、容易に手に入る。錦城の毛髪も、研究室に行けば、床から拾える。事実、荒垣が、錦城の研究室から出てくる姿も、舞は、廊下の柱の陰から目撃していた。


 優子が、心配そうな視線で、舞を見ている。


「優子先生が噂話とは、珍しいですね」


「ただの噂なら、いいけど。仕事で関係がある人たちだし。耳に入れたほうがいいかな、と思ってね」


 優子は、噂話に興じるタイプではない。舞は、優子の発した、複数形の「人たち」が、気に懸かった。荒垣の恋人は、舞の知人である可能性が高い。


 今朝、喜多川と会ったばかりだ。明日の夕方には、西宮警察署に行く予定だ。荒垣の容疑は晴れた、と思っていた。だが、時期尚早だ。まだ調べる事柄も、残っている。


「今日の午後、いよいよ錦城先生の脳の解剖ですね。不謹慎な表現ですが、今から解剖結果が、楽しみですね」


 舞は、敢えて話題を変え、満面の笑みを、優子に向けた。


 優子が退室すると、急いでトレイの朝食の残り物をチェックした。優子から聞いた噂話が事実だとすれば、辻褄のあう事柄が出てくる。だが、黒いタクシーの謎、創設者一族の写真など、調べる事柄が、まだあった。舞は、自身の調査力を信じていた。

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