第三章 17 誰かが邪魔をしている

 楓が退室して、しばらくすると、藤原の院内用スマホが鳴った。藤原が表示パネルを見ながら、「辛嶋君だ」と呟く。


「明日の午前中まで? ご要望にお応えしたいけど。荒垣君が倒れたから、進まないんだ」


 藤原が、顔を顰めながら、相槌を打っている。


「知らなかったのか? まぁ会議室に籠っているから、当然だな。胃の内容物の分析が終わらないと、脳の解剖ができないからか?」


 口をへの字にしながら、藤原が壁のカレンダーを凝視している。


「脳外科医の応援が、今週の水曜日しか空いてないんだな。荒垣君は、いなくていいのか?」


 藤原が、チラリと舞と角倉の顔を順番に見る。


「そうだったのか。最初からメンバーに入っていなかったのか。では、胃の内容物の分析は、私が対応するよ。後二割ほどだし。ご苦労さん」


 藤原が首を傾げながら、スマホを切った。舞の顔を見る。


「今日は中止にする予定だったけど、錦城君の分析、急ぐみたいだ。残れるか?」


「栄養部長に連絡を入れます!」と、舞は頷くと、窓際に歩み寄った。白衣のポケットからスマホを取り出した。角倉の声が聞こえる。


「荒垣が食中りになったか否か、確かめるために、わざと電話をしてきたのでしょうか?」


 続いて、藤原の低い声が聞こえる。


「目的を実行するために、緻密な計画を立てるタイプだからなぁ」


「悪巧みを働いてまで、名誉が欲しいのですかねぇ?」


 スマホを切ると、舞は元の位置に戻り、二人の会話に入った。藤原の顔を見る。


「辛嶋先生の口調は、荒垣先生が倒れた事実を、本当に知らない様子でしたか?」


「電話は顔が見えないからね。口調だけでは、驚いていたように思えたよ。でも、辛嶋君は、なかなかの役者だぞ」


 舞は、何か腑に落ちない感覚に陥った。


「錦城先生の胃の内容物の分析を急ぐなら、わざわざ荒垣先生の邪魔をするでしょうか? 脳の解剖も最初から、メンバーに入っていなかったみたいですし」


 藤原が腕を組みながら、首を傾げる。


「荒垣君が例の件を、突き止めたからだろう」


 角倉が訝し気な表情で、藤原と舞の顔を見た。


「角倉君は、錦城君の件、どこまで知っているんだ? 健康診断の結果が、怪しい件は、誰かから聞いたのか?」と、藤原が角倉に訊ねた。


「いえ。上司の優子先生が、錦城先生の件に、あまり関わりたくないようなので」


 藤原が、独特の鋭い眼光で角倉の眼を見る。


「胃の内容物の特定は、まだ二割ほど残っている。その前に、荒垣君が、錦城君の膵臓を調査したんだ。その結果、ほぼ糖尿病だと断言できる状態だったよ」


 角倉の顔からは、笑みが消えている。藤原が続けた。


「錦城君の健康診断の結果を見ると、過体重と血圧以外は、どの数値もギリギリ正常範囲内だった」


「血糖値やコレステロール値にD判定が出ないとは、変ですね」


 と、角倉が口を挟むと、藤原は、悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「誰かが、錦城君の健康診断のデータを改竄した、と宇田川さんと荒垣君が、推論を立てたんだ」


「荒垣が、証拠を発見したんですね? それを察した誰かが、荒垣の甜茶を掏り替えたと。辛嶋先生なら、改竄や掏り替えを、平気で実行しそうですね。次期、医局長のポストが待ってますから。でも舞ちゃんは、辛嶋先生が、そんな小細工をするようには、思えないんだね?」と、角倉が言う。


 舞は、右手を頬に当てながら、口を開く。


「理由が見当たらないのです。仮に優子先生だったとしても、です。錦城先生を亡き者にし、荒垣先生の行動を阻止してまで、守りたい何かがあるんだと思うのです」


 藤原が、実験室のドアを開ける。


「実験や分析には、待ち時間が付き物だ。反応結果や解析の待ち時間に、話したらいい」


 ゴム手袋を填めながら、舞は、藤原の顔を見た。


「荒垣先生が倒れた理由は、関係者の方々には、何とお伝えするのですか?」


「当面は、食中りだね。荒垣君が話せる状態に回復したら、事実は伝えるけどね。甜茶の掏り替えが事実なら、犯罪になるからね」


 角倉がゴーグルを掛けながら、藤原の顔を見て言った。


「大学側は、隠蔽したがるでしょうね。犯人が判っても、逆恨みを考慮して、解雇にしないでしょう」


 荒垣の性格なら、事を荒げないだろう。犯人は、荒垣の性格も見抜いて、実行したように思える。


 角倉が、途中経過の錦城の分析結果をモニターで確認しながら、「美食のツケ、そのまんまですねぇ」と藤原に話している。


 舞は、その時、モヤモヤした視界が、開けたと感じた。角倉から、訊き出せる確認事項が、多数ある。角倉と二人で話せる機会は、そう多くはない。藤原は、細かい作業の間は、退室するだろう。舞は、角倉への確認事項を、頭の中で整理した。

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