第三章 18 解剖医の父と優子の過去

 実験室の壁際に、試料用の冷凍庫がある。スチール製で、給食室の巨大冷蔵庫と同じサイズだ。藤原の指示で、右端の扉を開けた。荒垣が保存した試料が、見事な等間隔で並んでいた。舞は、思わず、角倉と顔を見合わせた。藤原が満足そうに、首肯する。


「荒垣君が保存した試料は、芸術作品のようだろう」


 角倉の顔が一瞬、曇り、「小学生の時の癖が、まだ残っていたんですね」と言った。


 藤原が、チラリと角倉の顔を見る。


「荒垣君は、お母さんを震災で亡くしていたね」


「今から思うと、ショックで自閉症だったんでしょう。子供の自閉症の特徴の一つに、等間隔で物を並べる行動があります。子供の時の癖は、大人になっても残る場合があるので」


 角倉が、試料を取り出し、実験台の上に並べた。だが角倉の表情は、暗い過去が甦ったのか、哀し気であった。


「仕事に役立っているから、いいと思うよ」と、藤原が言う。


「荒垣も人の子ですからね。心理面が影響しているかと思いまして」


 藤原が角倉の表情を、心配そうに見ながら訊ねる。


「荒垣君の父親と、錦城君との確執か?」


 舞は、眉根に皺を寄せて、藤原の顔を見た。藤原が舞の表情を見て、話題を変える。


「先に、今日の作業工程を伝えておく」


 藤原が分析の途中経過を説明した。舞は、愛用のノートを広げ、金曜日にメモした内容を確かめた。一通り説明が終わると、藤原が実験室の出口に向かいながら、角倉を見る。


「荒垣君の食中りの件、関係者に伝えてくるよ。ちょっと外すけど、二時間以内には戻るから。後は、任せたよ」


 実験室の扉が閉まると、舞は、角倉の顔を見た。


「藤原先生は、教授会議に参戦するのでしょうか?」


 角倉が、静かな笑みを浮かべる。


「コーヒー・ブレイクだ。総合病棟の最上階に、OB用のティー・ラウンジが、あるだろう? 理事長に会いに行ったと思うよ」


 舞は、芦屋医大の理事長、茂森正雄の姿を思い出す。錦城の学内葬で実物を初めて見た。


「藤原先生は、理事長と懇意なのですねぇ」


「学部は違うけど、神戸大学の空手部で一緒だったんだ。藤原先生を、芦屋医大に呼んだのも、理事長みたいだしね」


 舞は、《御影ホテル》レストランのウェイターの言葉が脳裏に過った。坂下も、理事長の大学時代の後輩だと聞いた。月曜日は、坂下の勤務日だ。OB用のティー・ラウンジも、《御影ホテル》レストランと同じフロアだった。


 角倉が、手際よく実験道具を使い、試験管に試料を入れていく。舞は、ピペットを慎重に使い、薬剤を計量した。反応結果が出るまでの時間を利用して、舞は角倉に質問した。


「荒垣先生のお父様は、他界されていますよね。錦城先生とトラブルがあったのですか?」


 角倉が、試験管を見詰めたまま、口を開く。


「阪神大震災の翌年ぐらいから、錦城先生が、抗鬱薬の開発を急ぐようになったそうだ。当時、荒垣のお父さんは、実家の調剤薬局の仕事と並行して、薬学部の研究員としても籍を置いていたらしい」


 舞は、試験管の反応を気にしながら、角倉の顔を見る。


「抗鬱薬を研究されていたのですか?」


「いや、薬物の副作用による神経の研究だ。錦城先生が、それに目をつけて、ご執心だったらしいよ」


「お受けしたのですか?」


 と、舞が訊ねると、角倉が首を傾げる。


「多分、完成していたみたいだけど。物質の配合や化学式を発表する前に、お亡くなりになったんだ。精神衰弱みたいだね。ご自身が精神安定剤を多用するようになって」


 舞は、背筋に冷たいものを感じた。


「それって、口封じじゃないですよね?」


「先輩たちの噂話だから、どこまで本当か怪しいけど。新薬を公表すると危険だから、錦城に渡す前に、自殺したのでは? という説があるそうだ。だから、錦城先生が、血眼になって、荒垣の父親の開発ノートとかデータを探し回っていたらしい……」


 舞は、何度も頷いた。


「荒垣先生にとって、錦城先生の死は、複雑だったでしょうね」


「当時は、荒垣もまだ高校生だったから。内情を知ったのは、大学に入ってからだろう」


 角倉が、試験管の反応を見ながら、パソコンにデータを打ち込む。


「当時の新薬の内容だけどな。実は、優子先生の亡くなった旦那さんが、元々の考案者かもしれないんだ」


 舞は一瞬、心が躍る。以前から訊きたかった、優子の夫の詳細だ。


「錦城派の精神科医だったのですか?」


 角倉が、神妙な表情を浮かべる。


「優子先生は、自分からプライベートの話をしないからね。俺も本人から聞いた訳じゃない。精神科内の医師なら、ほとんどが知っている事実みたいな感じかなぁ」


 舞と角倉は、手分けして、試験管の試料を、分析計の容器に注入した。角倉が、慎重に分析計の蓋を閉めると、話し始めた。静かな機械音が、響く。


 優子の夫は、大学院の博士課程で、錦城の指導を受けていた。名は、仁川祐司ゆうじ。当時、三十一歳で、優子と結婚したばかりだった。阪神淡路大震災の前日から、徹夜で錦城と辛嶋の三人で、研究室に籠っていた。


《バイオ・ラボ》と呼ばれる、特殊な研究室で、避難時は自動ロックが掛かる設計だった。地震が発生すると、異変を感じ、錦城と辛嶋は、速やかに走り去った。


 だが、実験に没頭していた仁川は、自動ロックが作動して、逃げ遅れた。その後、揺れ返しの影響で、校舎は崩れ落ちた。


 震災の翌日、自衛隊員によって、仁川の遺体が発見される。後に発見された監視カメラには、錦城の映像が残っていた。走り去ろうとする夜勤の守衛に向かって、錦城がラボの扉を指差しながら、叫んでいる様子だった。辛嶋は、映っていなかった。


 舞は思わず、「閉じ込められたのでは?」と、呟いた。


 角倉が、驚いた表情で、舞の眼を見詰める。


「錦城先生なら、監視カメラを意識して、演技しそうだね」


 モニター画面に、錦城の胃の内容物の分析結果が映し出された。角倉が、顔を顰める。


「えらい複雑だね。食材の種類が多すぎて、消化不良を起こしたんだな」


 角倉が、他の臓器の分析結果を表示させる。


「肝臓も腎臓も、解毒機能が働いてなかったみたいだね」


 舞もモニターを凝視し、角倉に質問する。


「糖尿病患者も、肝臓や腎臓の機能低下が見られますからね。やはり糖尿病の線が強いですね?」


「糖尿病だと知っていたら、饅頭のドカ食いは、注意したのになぁ」 


 角倉が、残念そうな様子で、丸椅子に座った。


「いつも嫌味な感じだったのに。あの日は珍しく、錦城先生の機嫌が良かったんだ。その様子に気を取られてね。医師目線で、錦城先生の様子を観察するべきだったな」


 舞は、気落ちしている角倉の様子が気になったが、業務に必要な質問を重ねた。角倉は、丁寧に応じてくれた。舞は、分析結果の要点を確認し、ノートに走り書きした。


「後ほど、データの保存先の共有フォルダを確認して、栄養部長と栄養分析を行っておきます。栄養部の専用ソフトで行いますので」


 と、舞が言うと、角倉はキーボードを叩いていた。


「藤原先生が、最終判断を下すだろうけど。錦城先生は、糖尿病だったと言いきれる状態だね。しかし荒垣は、どこのLANに、錦城先生の真の健康診断結果を隠したのだろう?」


「荒垣先生は、かなりITリテラシーが高いのですか?」と、舞は訊ねる。


 角倉が、何度も頷く。


「ハッカー並みの知識があると思うよ。けど、何処から漏れたんだろうね。多分、人の口からではないと思うんだ」


「噂話とか、盗聴以外の手段ですね」と、舞が合いの手を入れる。


「荒垣と同等の頭脳の持ち主か? AIとか?」


 その時、角倉の院内用スマホが鳴った。

「会議が終わったのかな? 優子先生だ」角倉が、舞の顔を見ながら、電話に出た。


「まだ医局長が決まらないのですね。へえ~、僕に内示ですか?」


 角倉が、やや退屈そうな表情で、相槌を打っていた。角倉がスマホを切ると、藤原が戻って来た。嬉しそうな笑みを浮かべている。


「准教授に昇格するんだって?」と、藤原が角倉を冷やかした。


「患者さんの完治率が高い事実が、認められたのですよ!」と舞も笑顔で、角倉を見た。


 舞が祝福の言葉を贈っても、角倉の表情は冴えなかった。


「肩書は、どうでもいいですよ。まだ決定ではないですし。藤原先生、早耳ですね?」


 藤原が口角を上げ、「いろいろと裏を探っている時に、耳にしたんだ」と言った。


 藤原が、舞と角倉の顔を順番に見て、「分析は終わったか?」と訊ねた。


 角倉が、冴えない表情のまま、口を開く。


「定性分析は、ほとんど済んでいましたからね。その後、分析計に入れて、結果が反映されましたよ。錦城先生は、糖尿病でしたね」


 藤原が、モニターを凝視する。腕を組みながら、顔を顰めた。


「インスリン注射を打ってない状態で、大量に糖質の高い物を食っていたんだね。間接的な自殺だね」


 角倉が、ガックリと頭を垂れる。


「いつから、インスリン注射が必要な状態だったのでしょうね? ご本人も、医者だから、気付いていそうなものですが……」


「新薬の研究をしていたから、薬品は怖かったんだろう」


 と言うと、藤原が、舞の顔をチラリと見る。


「ここまで、分析に携わって、気付いた点は、あるかな? 君は大学院で食行動と神経の関係を研究しているそうだね?」


 藤原の眼光が、鋭くなった。舞は、真っすぐに藤原の眼を見た。


「甘い物を食べると、脳は一時的に快楽を味わいます。頻繁に召し上がっていたので、錦城先生には、現実逃避をしたいほど、真剣な悩みがあったのだと思いました」


 藤原が、ニヤリと笑う。


「砂糖も、麻薬並みに依存性が高くなるからね。甘い物に依存するほど、脅迫観念があったんだ。有名人が麻薬に溺れるみたいにね」


 角倉が、錦城の解剖結果を、モニターで確認している。


「医局長の座を失う恐怖か? 誰かの研究を横取りした事実がバレそうか? そんなところでしょうね」と、角倉が言った。


 舞は、地位に拘る錦城の真意が測りかねた。


「錦城先生は、医師として、さほど優秀では、なかった訳ですね?」


 と舞が訊ねると、藤原が首を傾げた。


「錦城君のお父さんは、芦屋医大の創設者メンバーの一人だったからね。医大に入学しても、裏口だと陰口を叩かれ、昇進しても親の七光りだと揶揄され。何をしても、父親と比較されるから、実績が欲しかったんだろうね」


 角倉が、フッと笑みを浮かべる。


「錦城先生の息子さんは、お父さんとお爺さんの関係を見て、違う道を選んだのでしょうね。国立大学だから、恐らく実力で入試を突破しているでしょうし」


「錦城先生は、息子さんが違う道に進むのを、すんなり許したのでしょうか?」


 と舞が問うと、角倉が、何かを思い出したように、顔を上げた。


「反対を押し切って考古学者の道を選んだ。結局、発掘調査では、人骨に興味をそそられるから、親の血を引いているんだと思った。と話していたよ。今は、最新テクノロジーで分析できるから、IT技術も必須らしいよ」


 舞は、頷きながら、分析の終わった試験管を流し台に移動させた。角倉も、他の実験道具を片付け始める。藤原が、洗い終わった試験管を熱風消毒保管庫に入れて行った。


 錦城の息子なら、荒垣と同格のITリテラシーがあるかもしれない。考古学者の卵なら、毒草の知識も豊富だと思える。だが、荒垣との接点は、ないに等しかった。


 舞は、角倉に質問を続けた。


「角倉先生が、甲神学園に通っていたころは、男子校でしたよね? 錦城先生の息子さんの世代では、もう共学になっていましたか?」


「二〇〇五年度の中学入試から共学になったよ」と、角倉が頷いた。


 舞は、佐伯桐花の出身高校が、気になった。


 最後の点検を済ませると、藤原が顔を上げる。


「後片付けまでさせて、悪かったね。栄養分析は、明日でいいから」


 舞は礼を述べると、荒垣の机を見た。甜茶のペットボトルがなかった。角倉も机を見る。


「証拠品は、冷凍庫にあるから大丈夫だ。やっぱり荒垣が心配か? でも、今日は見舞いに行かないほうがいいよ。明後日には会えるだろう」


 藤原が、意味深な笑みを浮かべる。


「宇田川さんが、荒垣君の父上と、似たような研究を目指しているとはね。まぁ、薬学と栄養学の違いはあるけど。君もランビエの絞輪に注目しているんだろう?」


 舞は、内心、驚いた。


「荒垣先生からお聞きになったのですか?」


「いや、何となく。老人の勘かな?」と言うと、藤原が静かな笑みを漏らした。


「荒垣君のお父さんの名前は、政勝まさかつさんだ。論文検索してみるといい。では、今日はご苦労さま」


 舞と角倉は、藤原に丁重に頭を下げると、退室した。


 廊下に出ると、角倉も意味深な笑みで、舞を見る。


「藤原先生も、何か思うところがあるようだね?」


「錦城先生の糖尿病の件ですよね?」と、舞は問い返した。


「舞ちゃんは、仕事面では鋭敏だけど。他の面では、疎いようだね」


 舞は、腑に落ちない思いで、角倉の横顔を見た。


「私の研究テーマと、荒垣先生のお父様の研究テーマが似ている件ですか?」


 角倉が、頷きながら笑い、話題を変えた。


「俺は教育棟の講師室に戻るけど。最上階の展示室、見に行ってみないか? 震災時のパネルも見られるよ。俺も気になってきてね」


 舞は、何度も首肯した。九号館を出ると、肌寒かった。十月に入ると、日が落ちるのも早い。舞は、西空を見上げる。美しい夕焼けが、何故か物悲しかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る