第三章 16 第三の被害者

 昼食を早めに済ますと、舞は解剖実習室に向う準備をした。一階まで下りると、舞は、九号館の裏路地へ向った。まだ時間があるので、葉紫陽花を眺めながら、ゆっくりと歩いた。舞は、出入り口には向かわず、東端まで歩いた。東端の葉紫陽花の植え込みから、救急通りを見渡す。向かい側に立体駐車場、左に視線を移すと、総合病棟の車寄せが見える。


 改めて見ると、ガードマンが立っており、タクシー乗り場の立札もあった。送迎用のバスも運行されているため、一見すると、観光ホテルの車寄せのようだ。


 タクシー乗り場を凝視していると、立札が二箇所あった。文字までは、見えない。だが、後方のタクシー乗り場には、黒いタクシーのみが、数台、停まっていた。


 舞は、ふと、優子はタクシー通勤ではないか? と思った。考えに集中しようとしたが、午後の業務がある。引き返すと、舞は、九号館の裏の出入り口へ急いだ。


 廊下に、人気はない。室内から低い、話し声が聞こえて来た。解剖実習室のドアをノックすると、室長の藤原が顔を出した。舞の顔を見ると、鋭い眼光で、口を開いた。


「荒垣君が、倒れたんだ。食中りだ」


 舞は、背筋に悪寒が走るのを感じた。震えが表に出ないよう、脚に力を入た。


 単なる食中りだろうか? タイミングが良すぎる。錦城の次は、荒垣の命が狙われているのか? 舞は、大きく頷くと、藤原の次の言葉を待った。


「荒垣君から、今日の作業の指示は受けているね? ただ定性分析は、一人で作業しないほうがいい。私が出しゃばると、荒垣君の作業手順が狂うと思うし。今日は中止だ」


 藤原が奥の実習室にいるインターンに向かって、元に戻すよう、声を掛けた。


「立ち話も何だらか、まぁ、入りなさい」


 舞は、藤原に一礼すると、ミーティング・スペースの椅子に腰を掛けた。


「いつの出来事なのですか?」


「さっきだ。三十分ぐらい前だなぁ。風邪一つ引かない荒垣君が、食中りとは。昼飯に、何を食ったんだろうね?」


 インターンが舞に近付き、「荒垣先生から二つ、託がございます」と言った。


 藤原も興味深そうな表情で、インターンの次の言葉を待つ。


「例の件は、分かった」


 インターンが言葉を切ると、藤原が、顔を顰めた。


「もう一つは、『角倉に応援頼む』です」



 藤原が腕を組み、思案顔のまま、舞の顔を見る。


「突き止めたのか。それで、口封じで食中りか……」


 藤原は、暗い笑みを浮かべている。舞は、藤原の指摘が、図星のように感じた。


「ご冗談ですよね?」と、舞が言うと、藤原が鋭い視線を舞に向けた。


「君は、『例の件』の意味が分かっているのか?」


 舞は、インターンの顔を、チラリと見た。藤原が察すると、インターンに退室を促した。


 舞は、扉が閉まるのを確認すると、口を開いた。藤原は、スマホを操作していた。


「錦城先生の健康診断の結果を、荒垣先生が突き止めたので、口封じに食中りですか?」


 藤原が、大きく首肯する。


「このタイミングだから、疑わしいね。荒垣君の吐瀉物を分析したら、分かるだろう」


 藤原の院内用のスマホが鳴った。


「角倉君からだ」藤原がニンマリとした笑みを浮かべる。


「今、時間、空いてるか? 荒垣君が食中りでね。吐瀉物を分析してほしい。ちょうど、宇田川さんもいるし」


 藤原が、何度か首肯すると、「頼むよ」と、愉快そうな表情でスマホを切った。そして、舞の顔を見て、「すぐ来るそうだ。今日は、暇なのか?」と、言った。


 舞は首を傾げながら、口を開く。


「教授陣の緊急会議が、まだ続いているようですし。今日は、受け持ちの患者さんも、落ち着いていましたからね」


「そんな日もないと、やってられないよな」と藤原が、意味深な笑みを浮かべた。


 荒垣を指導した老医師は、今の状況を楽しんでいるように見えた。荒垣が、解剖や分析の話をする時の様子と似ていた。


 角倉が、形相を変えて入って来た。親友の異変を、心から案じている様子だ。舞は、冷静に角倉の様子を観察した。喜多川が角倉にも、疑いの目を持っていた。今の角倉の様子が嘘なら、かなりの役者だ。


 角倉は、藤原の話を聞きながら、実験室に移動した。舞と藤原も、後に続いた。実験台の上には、密封袋に入った雑巾が入っていた。荒垣の吐瀉物を清掃した雑巾だ。角倉は、頭を切り替えたのか、慣れた手付きでゴム手袋を填めた。


 藤原が、誇らしげな表情で、角倉を見ている。


「君は解剖医に向いていると思っていたけど。中国に留学してしまったからなぁ」


 角倉が、チラリを藤原に視線を移す。


「僕がいたら、足手纏いでしょう。生薬の効能の成果を見届けるのが、僕の使命ですから」


 藤原が、ニヤリとしながら、「今日は、上司の許可を取ったのか?」と、角倉に訊いた。


「ずっと会議で教授陣は、誰もいませんよ。メールだけ入れておきました。事後報告でいいでしょう。いつも単独行動ですし」


 と言うと、角倉はゴーグルと、実験用のマスクを装備し、舞にも促した。角倉が、荒垣のデスクに視線を移す。


「さっき、舞ちゃんが話していた、イスギ・スーパーの甜茶だね。飲みかけのペットボトルもあるなぁ」


 角倉は、ゴム手袋を填めたまま、飲みかけのペットボトルの蓋を開けた。続いて、新品のペットボトルの蓋も開けた。匂いを嗅ぎ分けている。首を傾げながら、舞と藤原の顔を順番に見た。


「匂いに違いは感じられませんが、念のため、甜茶も成分分析をしてみます」


 柔和になっていた藤原の眼光が、また鋭くなった。険しい表情だ。藤原が見守る中、舞は角倉と一緒に、荒垣の吐瀉物を調査した。


 荒垣の吐瀉物を清掃した雑巾に、ご飯粒が混じっていた。角倉が、専用容器を用いて、雑巾から少量の溶液を取り出して、試験管に移した。その試験管に、舞が、毒性を反応させる薬剤を加えて行く。


 実験室には、最新のドイツ製の分析計が導入されていた。分析計には、直径一㎝程度の容器が二十個ほど、円状に並んでいる。その小さな容器に、試験管で混ぜた溶液を、少しずつ入れて行った。全ての容器に入れ終わると、各容器の小さな蓋を閉めた。


 最後に、分析計の蓋を閉めると、角倉が、慣れた手付きでセットした。静かな機械音が、実験室に響いた。角倉が、パソコンを操作して、分析計と連動したアプリを立ち上げた。


 五分ほど経つと、分析結果が表示された。赤く表示されているのが、原因となる成分だ。青酸配糖体と嘔吐性アルカロイドだ。


 荒垣は、握り飯で昼食を済ませたのか、肉類は分析結果に上がっていない。米飯の他に、海藻類も分析結果に上がっていた。米飯に生える黴は、菌類に分類されるため、青酸配糖体やアルカロイドに該当しない。原因物質は、他の食品だ。


 角倉が《青酸配糖体》の文字をクリックする。複雑な化学構造式が、モニターに映る。


「この構造式、どこかで見たなぁ? まぁ致死量ではありませんね。元々ヒトは、青酸配糖体の免疫もありますからね」


 と言いながら、角倉がスマホを取り出し、何やら入力している。


 青酸配糖体は、現在、分かっているだけで約三百の異なるタイプがある。別名でシアン化合物とも呼ばれる。一部の植物が持つ、毒性成分の一種だ。


 藤原が、腕を組みながら、モニター画面の隅々に視線を移す。


「今のところ、命に別状はないみたいだから、嘔吐性アルカロイドが強く反応したんだろうね。荒垣君は、昨夜、酒を飲んでいたんじゃないか?」


 藤原が胃酸の分泌結果を凝視している。角倉も、静かに首肯した。


「荒垣は、酒に強いですからね。アルコール度数の高い、日本酒好きですし。まぁ、アルコール性胃炎を起こすほどではありませんが」


 舞は、シアン化合物が、死に至る過程を、思い返した。


 ヒトの細胞には、ロダネーゼと呼ばれる酵素が存在する。その酵素が、シアン化合物を、毒性の低いチオシアン酸塩酸に変換し、尿と一緒に排泄する。いわゆる、解毒作用だ。


 だが、解毒能力を超えるシアン化合物を摂取すると、胃酸などと化学反応を起こして、死に至る。胃酸と反応したシアン化合物は、シアン化水素に変化し、血流に乗って、全身を巡る。シアン化水素は、血液中のヘモグロビンと結びつき、人体の細胞の中へ侵入する。


 細胞の中には、ミトコンドリアが存在する。個々のミトコンドリアは呼吸をしながら、人体のあらゆる部位にエネルギー供給を行っている。


 ミトコンドリアがシアン化合物の毒牙に掛かると、エネルギー供給が止まる。その結果、細胞そのものも機能が止まる。細胞死。ネクローシスだ。人体の細胞数は、約六十兆個。全ての細胞の死滅は、ヒトの死に繋がる。


 しかし、胃炎などで、胃酸が充分に分泌されていない者は、シアン化合物の化学反応が起こりにくい。このため、死に至らないケースがある。荒垣の今回のケースは、前夜の飲酒が幸いしていたとも、考えられた。


 舞は、自身の記憶と考察を、角倉と藤原に確認した。藤原が、頷きながら口を開く。


「もし口封じだと想定しても、仕込んだ奴は、荒垣君の命までは狙っていなかったんだ。三日ほど、活動を停止させたかったのかもしれないね」


 舞は、首を傾げながら、質問する。


「もし飲酒してなくて、胃の働きが正常だったら、危なかったですよね?」


 角倉が、首を捻りながら、モニターの化学構造式を指す。


「舞ちゃんの先ほどの話は、シアン化合物の一般論だ。間違えでは、ない。この構造式が何の植物を指しているかで、殺意の度合いがわかると思うよ」


 角倉が、時折り、白衣のポケットに手を入れ、スマホの反応を気にしている。その時、ノックの音が聞こえた。角倉が右手を上げて、素早くドアに移動する。


「忙しいのに、悪いなぁ。まぁ、入ってよ」


 角倉が入室を促している相手は、薬剤師の北島楓だった。舞は一瞬、ぎくりとした。


 楓は、薬学部の大学院では、生薬について、角倉の教えを乞うている。だが、実務では、錦城派の薬剤師の一人だ。ここ数日は、辛嶋の指示で行動していた。


 角倉が、楓から渡された書類に見入っている。


「やっぱり紫陽花科の植物だね」


 角倉が、舞と藤原の顔を見ると、静かな笑みを浮かべる。


「ゆっくり調べている時間がないので、さっきの化学構造式を、北島さんに探してもらったんですよ」


 角倉がスマホを操作していたのは、楓へのメッセージ送信だった。

 ミーティング・スペースに移動すると、楓が、書類をテーブルの上に並べた。


「紫陽花科の甘茶の化学構造式です。中国の生薬で使用されているのは、常山紫陽花と呼ばれる品種の葉の抽出物になります。成分分析の結果を見ますと、毒性物質としては、嘔吐性アルカロイドのみです。青酸配糖体は含まれていません」


 楓は言葉を切ると、三人の顔を順番に見た。


「イスギ・スーパーの甜茶は、常山紫陽花の葉の抽出物です。濃く煮出さない限り、嘔吐性アルカロイドの影響はありません。ペットボトル飲料の場合、添加物としてビタミンCが加えられるので、腐敗の心配も少ないです。開封後、常温で何日も放置すれば、さすがに腐敗します。でも、味が変わるので、飲む時に気付くはずです」


 角倉が満足そうに頷いている。楓が続ける。


「ご連絡頂いた化学構造式は、紫陽花科の植物のものでした。生薬に使われる品種ではなく、額紫陽花です。青酸配糖体が含まれます」


 角倉と藤原は、書類を凝視したまま、何かを考えている。飲みかけのペットボトルの中身は、掏り替えられていたのか?


 舞は、紫陽花の葉の食中毒の事例を、瞬時に思い返した。愛用のノートを見返す。先日、落書きした紫陽花の葉の絵を見詰めた。紫陽花と紫蘇は、葉の形が類似している。


「紫陽花の葉の食中毒は、いくつか事例がありますよね? 大阪と群馬の居酒屋で、酔った客が、紫蘇の葉と誤って、玉子焼きと一緒に食べた二例です。もう一つは、長野県の植物園で、園児に甘茶が振舞われた件です。いずれも、死者は出ておらず、嘔吐と下痢を繰り返し、三~四日で回復しています」


 藤原が何度も首肯している。

「公衆衛生の報告で上がっていたね。私も読んだよ。仕組んだ奴は、この例を組み合わせたのかもね」と言うと、藤原が右手で頬を押さえながら、思案顔になった。


 角倉が、楓の顔を見て言った。


「紫陽花の葉に毒性がある事実は、厚生労働省のホームページにも載ってるけど。実際、紫陽花の葉を煮出したら、甘いんのか?」


 舞は、書棚を凝視した。毒草図鑑があった。書棚に移動して、目的の書籍を取り出すと、ページを捲った。舞は、内容を説明する。


「専門書には、青酸配糖体を含む植物の味は、苦くて甘いと明記してあります。厚労省のホームページでは、紫陽花の毒性の実態は明らかになっていない、と書いてありました。仕込んだ人は、この辺りの曖昧さに、注目したと思います。証拠不十分になりますから」


 藤原が、「一理あるなぁ」と呟きながら、何度も首肯している。舞は、藤原の顔を見た。


「まさかとは思いますが。九号館の裏の紫陽花の植え込みは、額紫陽花でしたよね?」


 他の三人が、顔を見合わせながら、首を傾げている。


「灯台下暗しかぁ。確かに普通の丸く咲く紫陽花ではなかったなぁ」


 藤原の鋭い眼光が、哀し気に陰った。

「やっぱりアイツなのかなぁ。このタイミングで、企むのは」


 楓が藤原の顔を見て、ハッとする。

「辛嶋先生は、『公衆衛生学』の受け持ちでしたね……」


 角倉の表情が、やや明るくなった。

「そういえば、施設の集団食中毒を経験した患者のトラウマについて、論文が出てたね」


 楓は、バツの悪そうな表情で、藤原の様子を見ている。楓の発言は、辛嶋の立場を不利にするものだ。


 舞は楓の顔を見ると、「ここに来て、大丈夫だったのですか?」と、訊ねた。


「必要な資料をお持ちしただけですから。荒垣先生が、倒れた事実も、すぐに知れ渡るでしょう。錦城先生の分析が進まないと困るのは、教授陣ですから」


 と答える楓の態度は、怯えていた。舞には、辛嶋を恐れているように思えた。先日から感じている悪巧みの正体は、辛嶋が主犯なのか? 楓の痛々しい表情を、角倉が切ない視線で見詰めていた。

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