第三章 12 土曜日の早朝

 土曜日の朝、七時半、舞はカフェ《ブリック》の窓際席に座っていた。荒垣の姿は、まだ見えない。舞は、ソイ・ラテを飲みながら、病理学の専門書を読んでいた。時折、窓の外を見る。


 マスターがライ麦トーストを、運んで来ると、舞の顔を見て言った。


「お連れ様ですが、土曜日はいつも八時過ぎにお見えです」


 舞は、心の中を見透かされたようで、内心、驚いた。

 マスターは、一礼すると、立ち去った。不愛想ながら、舞への心遣いだと思えた。


 舞はライ麦トーストを齧ると、咀嚼しながら、専門書に視線を落とした。荒垣が姿を現すのに、後二十分ほどある。二十分あれば、一限目の授業の予習範囲を一通り速読できる。


 舞は、切りのいいところで、書籍から顔を上げ、ライ麦トーストに手を伸ばした。手元のバランスが崩れ、専門書が床に落ちた。舞は、座ったまま右手を伸ばして、専門書を拾い上げる。膝の上に置くと、落ちた弾みで、折れたページが見つかった。


 折れたページを開くと、「病理解剖からみた糖尿病患者」の項だった。今日の一限目の授業の項ではない。だが、錦城の糖尿病説が疑わしいため、熟読した。


 小項目の最後のほうには、「死因および合併症」とあった。糖尿病の合併症で死に至る疾患は、心筋梗塞が一番多い。脳血管障害の例は、比較的少ないが、皆無ではない。脳梗塞は脳血管障害の一種となる。


 錦城の直接の死因は、脳梗塞だ。心因性の脳梗塞の可能性が高いため、糖尿病の影響で、心血管にダメージがあったと想定できる。解剖の結果、錦城は糖尿病であった確率が高い。


 錦城の健診結果の偽造の証拠は、見つかるだろうか? 舞は食い入るように、専門書を顔に近付けて読んでいた。何度も熟読していると、書籍からトントンと、震動が伝わった。


 舞が顔を上げると、荒垣が立っていて、「近視か?」と訊いてくる。


「いえ、面白い項目があったので、熟読していました」


「何を見入っていたのだ?」と荒垣が、専門書の開いたページに視線を移す。


「休みの日まで、仕事の研究か? 四六時中、考えていたら疲れるよ」


「一限目の予習のつもりが、別の項に目移りしたのです」


 舞は、愛想笑いを浮かべながら、荒垣の表情を伺った。


「例のものは、見つかりそうですか?」


 荒垣が、ウェット・ティッシュで手を拭きながら、首を横に振る。


「まだだ。休日に、パソコンを開けると、管理部に目を付けられるからべ。出勤申請を出したから、今日中に見つかるといいけど」


 マスターが、コーヒーとトーストを荒垣の前に置いた。


 舞は、マスターが、カウンター内の定位置に戻るのを見届けてから、口を開いた。


「木曜日の夕方の話ですけどね」


「今日は、急いでないから、ゆっくり聞くよ」と言う荒垣の表情が、いつもより明るい。


 舞は、声を落とし、喜多川からの忠告内容を伝えた。実家に寄った際に、父、勝司から聴いた西山町での噂話なども、話した。優子には、報告そしていない旨も、強調した。


 舞が話している間に、荒垣はトーストを食べ終え、コーヒー・カップを手にしている。


「あの人が、個人で動いてくれるとはなぁ」荒垣が、窓の外を見ながら、思案顔になる。


 あの人とは、西宮警察署の喜多川を指している。


「形になってきそうだね」と、荒垣はしみじみと言った。


 舞は、「糖尿病の考察ですけどね」と言うと、やや前のめりで、荒垣の顔を覗き込だ。


 荒垣が、そっと店内を見渡すと、口を開いた。


「分析の件は、一応、職務内容だ。月曜日に職場で話そうか。一限目の予習は、できているのか? 今はどの辺だ?」と言いながら、荒垣が舞の専門書を取り上げる。


「老化のメカニズムです」と、舞が告げると、荒垣がページを捲る。


「懐かしいなぁ」と、荒垣が笑みを零す。荒垣は、頼んでもいないのに、その章の要約を、簡潔に説明し出した。ページを捲りながら、試験に出そうな箇所も教えてくれた。


 荒垣は、マスターの視線を気にしているように思えた。心なしか、声が大きい。舞とは、師弟関係だと強調しているのか? 舞は、何故か心寂しい気分になった。


 十五分ほどで、荒垣の説明が終わる。荒垣がコーヒー・カップに手を伸ばした。


「俺は、新聞を読んでから、出勤するよ」


 舞は、予習の礼を述べると、舞は立ち上がった。カウンターでは、マスターが朝刊と、コーヒー・ポットを盆に載せていた。舞と目が合うと、マスターの口角が上がっていた。


 店を出ると、舞は、歩きながら、一限目の授業内容の予習を反芻した。先ほどの荒垣の説明で、理解度が深まりそうだ。

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