第三章 11 解剖実習室

 金曜日の午後、舞は、昼食を済ませると、九号館の解剖実習室へ向った。舞が解剖実習室に入ると、奥の実験室から荒垣の姿が見えた。実験台に、調査する溶液や実験器具を並べている。舞が実験台に近付くと、不快な臭いは、なかった。


 荒垣が舞の顔をチラリと見て、すぐに視線を実験台に戻した。


「錦城先生は、ブレイン・バンクの登録だったから。解剖が終わると、他の臓器は、速やかに返却したよ。各臓器からの内容物は実験用容器に入れて、冷凍保存してあるからね」


 荒垣が、確認するように、舞の眼を見詰めた。舞は、取り出された臓器類を目にする覚悟で、昼食の量を控えていた。そのため、やや拍子抜けした気分に陥った。


「今夜のお通夜に間に合わせたのですね」


「見たかったのか? 念のため、撮影してるから、後で画像を見たらいいよ。必要以上に保管しても、違反になるからね」


 舞は、頷くと、実験台に視線を移す。試験管や濾紙、検出試薬などが整然と並んでいた。荒垣の几帳面さが伺える。教育棟の荒垣の研究室は、雑然とした印象があった。だが、解剖の実践となると、様子が違ってくる。実験室の片隅には、荒垣用の事務机があった。


 事務机の上には、三本のペットボトルがあった。パッケージは甜茶となっている。


――荒垣先生は、甜茶を愛飲しているんだ!


 甜茶は、漢方茶の一種で、近年、人気が高まっている。大手飲料メーカーの安価なものなら、コンビニで購入できる。荒垣は、芦屋に本店のある高級スーパー《イスギ・スーパー》のオリジナル商品を愛飲していた。


「帰りに買ってみよう」と思いながら、舞は、実験モードに頭を切り替えた。


 日ごろの管理栄養士の職務では、ほとんど実験をする機会はない。


 舞は、荒垣の指示通り、定性分析を行った。錦城が月曜日の朝に食べていたと想定される、胃の内容物の溶液に取り掛かる。月曜日の八時半から九時の間に、錦城が氏鉄饅頭を食べていた事実は、角倉から聴いている。


 舞が持参した、氏鉄饅頭を少量だけ、胃液と同じpHの溶液に漬ける。一定時間を置いてから分析すると、錦城が朝方に食べていた内容物と一致した。


 学生のころは、自力で考察して、化学反応式をノートに書いていた。だが、実際の現場では、専用ソフトに結果を入力すると、簡単に化学反応式が作成された。


 錦城が昼食で食べていたステーキは、一㎝程度の肉塊のまま保存されていた。よく噛まずに食事をしていた証だ。事実、坂下の話では、錦城は早食いであった。


 溶液や濾紙での定性分析で、錦城が亡くなった日の食事内容は、おおむね把握できた。


 だが、二時間の限られた時間内では、確認できない事柄も多かった。他の業務もあるため、続きは、来週の月曜日に繰り越しだ。


 舞は、細心の注意を払い、使用済みの試験管を流し台に運んだ。実験後の後片付けは、思わぬ化学反応が起きるため、食器のように纏めて洗えない。


 荒垣が、壁時計を見ると口を開いた。


「後片付けは、インターンにやらせるから、もういいよ。記録した内容を、空いた時間に、栄養分析しておいてくれる? 実験内容については、優子先生や栄養部長に相談してくれても、いいから」


 舞は頷くと、「昨日の夕方の話ですけど」と声を落として、切り出した。


 だが、荒垣が手で制した。聞き取りにくい声で囁く。


「ここでは、実験以外の話は、するな」


 舞は、昨日の喜多川とのやり取りを、荒垣に報告したかった。


 舞の表情を察したのか、荒垣が小声で続ける。


「明日は、学内葬の前に、大学院の授業だろう?」


 舞が頷くと、荒垣は「お疲れさん」と退室を促した。


 舞は、九号館の裏手にある搬送用の出入口から出ると、路地を進んだ。葉紫陽花の植え込みが続く。


 芦屋医大構内のメイン通りに出ると、十号館の一階にあるコンビニに寄った。飲料売り場で足を止めると、甜茶を探した。大手飲料メーカーの商品が見つかった。パッケージには《甜茶》の文字の横に、小さく目立つ飾り文字で「バラ科の」と印字されていた。


 舞は甜茶を購入すると、九号館と十号館の間にあるベンチに腰掛けた。ペットボトルの甜茶を一口、味わってみた。無糖であるが、薬草の甘みが、口一杯に広がった。


 精密さを求められる実験の後だったので、咽喉が乾いていた。舞は、ペットボトルの半量を一気に飲んだ。飲みながら、ふと、荒垣の顔が浮かぶ。荒垣の意外な一面が、また一つ垣間見えたと思った。


 荒垣には、明朝、カフェ《ブリック》に行けば、会えるだろう。


 喜多川からは、勤務時間外は、院内用スマホの電源を切るようアドバイスされた。荒垣からも、解剖実習室内では、実験以外の話をするなと忠告された。


 二人とも、同じ内容を懸念しているように思えた。

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