終章 04 アメリカへの逃避行?
舞は、渡り廊下を歩きながら、優子の堕胎説を思い返した。事実であれば、優子の妊娠は、周りの医師たちが気付いたはずだ。仁川祐司は、震災で亡くなっている。少なく見積もっても、一九九五年七月には、妊娠期七ヶ月だ。堕胎手術は、難しい。
アメリカなら、日本よりも格段に医療が進んでいる。そのため手術は、可能だったかもしれない。だが、妊娠十二週以降に中絶した場合は、役所に《死産》の報告をする必要がある。優子は、妊娠を隠していたのか? 日本の法に触れない、アメリカに逃避行したとも考えられる。
これ以上、推論すると、回診中の優子の顔が、まともに見られなくなる。舞は、頭を切り替えると、精神科病棟に入った。今日の回診は、全体に、泣いたり、喚いたり、患者のネガティブ感情が露わだと、感じた。
精神科の事務室を出ると、舞は優子の顔を見た。
「優子先生は、大学院生の頃、学業とお仕事を両立させていたのですか?」
優子が優しい眼差しで、舞を見る。
「私が院生の頃は、社会人枠で大学院に進学する人は、まだ少なくてね。学業に専念してたよ」
「そうでしたか。博士課程は、アメリカの大学でしたよね?」
「アメリカの大学院は、実務経験があったほうが入りやすいのよ。だから、芦屋医大で修士を取得してから、二年ほど実務をこなしたわよ」
「受験勉強は、大変でしたか?」
優子は床を見詰め、何かを思い出している様子だ。
「日本みたいに、入試重視ではないからね。英語で書き直した修士論文とTOEFLのスコアを提出したわね」
「実務期間中に、語学勉強や英語の論文を書いていたのですか?」
優子が、首を傾げる。
「確か、二月ぐらいから、休職願いを出したなぁ。結局、復職せずに、渡米したんけどね」
一般に、妊娠四ヶ月目以降から、腹部の膨らみが目立つようになる。一九九五年二月から休職していると、周りの者は、優子の妊娠に気付かなかったと想定できる。
「アメリカでも、学業に専念していたのですよね?」と、舞はさらに質問を続けた。
「実務も兼ねた授業内容だったけど。学生の身分だから、お給料は出なかったね。栄養学の博士課程の時は、医師として実務もこなしたけど。実験も多かったから、切り替えは大変だったなぁ」
「強い意志がないと、努力が続かないですね」
舞と優子は、話しながら、エレベーターで一階まで下り、精神科病棟の外へ出た
優子が、感慨深い表情で、遠くの空を見詰めた。
「週末の気晴らしに、よくマンハッタンをブラブラしたわ。唯一の楽しみだったの」
――優子先生は、マンハッタン在住の義理の従姉に、会いに行っていたのでは? 佐伯桐花は、帰国子女だろうか?
舞は、以前、西宮警察署の喜多川の席で、モニター画面から、桐花の経歴を見た。尼宝女子大薬学部休学中と明記してあった。だが、それ以前の学歴は、載っていなかった。
優子の様子を見ながら、舞は、ふと思った。
――もし、堕胎説が、義理の従姉なら? 考え過ぎか……。
舞は、愛想笑いを浮かべる。
「仕事と学業の両立には、息抜きも必要ですね。参考になりました」
舞は、礼を述べると、栄養部のオフィスに戻った。
歩きながら、以前、荒垣が発した言葉が、舞の脳裏に浮かんだ。
「仮に君を尾行している奴がいるとしたら、理由は『知り過ぎ』だ」
今の段階では、ただの憶測だ。優子は忙しい身の上だ。舞を尾行するほど、暇ではない。
午後の解剖実習室の訪問を、舞は待ち遠しく感じた。荒垣に、舞の推論を話したかった。
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