終章 03 優子の過去
木曜日の早朝、舞は、カフェ《ブリック》に向かった。荒垣は、今日の午前中に退院する予定だ。昨夕の様子だと、ほぼ回復しており、入院生活に、退屈している様子だった。今朝は退屈しのぎに、病室を抜け、ブリックで朝食を摂っているように思えた。
路地に入ると、舞は電信柱に身を隠し、遠目からカフェの窓際席を凝視した。脚を組んで座っている男性の姿が、視野に入る。窓際に、見覚えのある鞣革の文庫本カバーが見える。荒垣は、やはり病室を抜け出していた。
舞が店内に入ると、マスターが窓際席を促した。マスターの仕草が目に入ったのか、荒垣が顔を上げた。舞が近付くと、「来たな」と、小声で囁き、新聞を畳んだ。
「病室を抜け出しても、大丈夫なのですか?」と、舞は荒垣に訊ねる。
「朝食は要らない、と伝えてあるから、迷惑は掛けてないと思うよ。荷物もないし。会計が開いたら、退院手続きをして、終了だ。それより、何か用か? 朝食に来ただけか?」
いつもの荒垣は、新聞を読みながら、面倒そうに話していた。だが、今日は、舞の話を真剣に聞く姿勢なのか、新聞を畳んでいた。
優子は、荒垣の食中りは自作自演だと、話していた。食中りについての話題には、触れないほうが良い。舞は、本題に入った。
「調べたい事柄があります。指導教員に義理の従姉がいたのです。被疑者と苗字が同じでした。三回生の前期で退学していますが、同期生でした。下のお名前が、知りたいのです」
荒垣が小声で、「なるほどね~」と、静かに感嘆していた。窓の外を見ながら、何かを考えているようだ。視線をゆっくりとテーブルの下に移すと、リュックを膝の上に置いた。
中から、二つ折りにした書類を取り出した。何度も読んだのか、紙が縒れていた。荒垣は、書類をテーブルの上に置くと、舞の前にスーッと差し出した。
「速読、得意だったね? 五分で内容を、頭に入れてくれるかな?」
頷くと、舞は書類をそっと開いた。何かの調査結果のようだ。
「素行調査ですか?」
「ある人のゼミの先輩が弁護士でね。探偵ごっこが好きらしい」
昨日の昼休みにも、舞は、荒垣の病室を訪れていた。その際に見掛けた、《小出弁護士事務所》の封筒と、ホームページの閲覧内容を思い返した。小出洋一のプロフィール欄には、神戸大学法学部出身、趣味は探偵小説になっていた。
角倉の話によると、喜多川は、藤原の後輩だ。喜多川も神戸大学出身となる。ゼミの先輩なら、同じ学部となるので、喜多川は神戸大学法学部出身だと想定できる。先ほどの荒垣の「ある人」とは、喜多川だ。恐らく先輩は、小出洋一弁護士だ。
舞が口を開こうとすると、荒垣が制した。
「所要時間は、五分だ。途中でも、取り上げるからな」
お得意のニヒルな笑みを浮かべると、荒垣は、再び新聞を広げた。
舞が調査書を凝視すると、優子の過去の渡航歴について、だった。
一九九五年七月に、優子は渡米していた。ニューヨークのマンハッタンで、最初の二ヵ月間を過ごしている。学期までの旅行としては、長い気がした。同年九月から、ニューヨーク州内のコーネル大学医学部大学院の博士課程に進学した。
舞は、甲神学園の創設者一族の隠し子説を思い返した。創設者の何代目かが、大卒後に一旦は就職して、転勤でアメリカに滞在していた。それが婿養子で、妻が仁川祐司の従姉なら? 隠し子説が本当か否かはさておき、夫妻には子供がいた。現在の推定年齢は、二十五~六歳だ。優子は、義理の従姉の出産に合わせて、渡米したのか?
調査書を読み進める。優子は、マンハッタン滞在中に、ロックフェラー医学研究所を見学している。途中、気分が悪くなり、近くの病院に入院していた。その病院は、一般の者は受け入れない、富裕層御用達の病院だった。
当時の医師の報告では、大学院入試や、異国地でのプレッシャーだとされていた。一方で、優子の堕胎説もあったが、確証はない。優子が入院した病院には、何人かの日本人もいた。その病院には産婦人科もあったため、日本人の妊婦もいたようだ。
その後の報告内容は、舞も承知している優子の経歴だった。
最後まで、書類に目を通すと、舞は、顔を上げた。荒垣も、顔を上げる。
「君の頼まれごとで、ヒントを得た。謎が解けたかもしれない」と、荒垣が言った。
書類を荒垣に渡しながら、舞は、内容を反芻した。だが、荒垣の考察は、分りかねた。
荒垣は、書類を細い円柱状に丸めると、右手で持った。
「書類上の七月に入院した事実が、重要だ。夕方、ある人に会うだろう? ヒントをくれるはずだ。君なら、事実を推測できるだろう」
舞は、以前、喜多川と会った際の会話を、思い返した。喜多川は、思いつく限りの人たちのDNA鑑定を、ある人に依頼すると話していた。事件性が確証しないため、警察でDNA鑑定をできない人たちが、対象だ。内密に、DNA鑑定を頼める相手は、荒垣だろう。
荒垣は、交換条件に、優子の過去を調べさせたのかもしれない。喜多川も、自身が動くのではなく、外部の先輩に頼めば、情報漏洩にはならない。
優子が話していたように、荒垣と喜多川は恋人同士なのか?
荒垣も喜多川も、合理主義だ。お互いに恋愛感情を持ちそうには、思えなかった。
「お話が変わりますが。図書館で、二十年ほど前の、ある薬学博士の論文を読みました。今回、発表された新薬は、二十年前に完成していたのだと思いました」
舞は、荒垣の表情を観察した。
「だから何だ?」と、荒垣が返して来る。
「何かの事情や、副作用を鑑みて、その研究が没になったと仮定します。例えば、開発者が、お亡くなりになったとか」
言葉を切ると、舞は続けた。荒垣は、新聞の隅を、折ったり、伸ばしたりしている。
「二十年近い歳月を経て、データが発見され、悪用されたとしたら? ご家族は、どう思うでしょうか?」
荒垣は、他人事のように、首を傾げる。
「当時、どんな心境だったかは、気になるだろうね。けど、似たような研究は、世界中の誰かが行っている訳だし。憶測で、誰かを恨んだりする心境は、俺には、分からない。そもそも、薬学研究に興味がなければ、その研究の価値も理解できないしね」
荒垣は、淡々としていた。舞の発言を、面白がっているようにも見えた。これ以上しつこく続けると、愚問になる。
「お話を戻しますが。先ほどの件、できれば夕方までに知りたいのです」
「午後に、解剖実習室に来る予定だったね?」
舞が頷くと、「了解」と発しながら、荒垣は、文庫本を手にする。
「まだ俺は、入院中になっているからね。九時過ぎまで、ここで時間を潰すから」
――今は、どんな小説を読んでいるんだろう?
文庫本のタイトルが気になった。コーヒーを飲み干すと、舞は伝票に手を伸ばした。
荒垣が、手で制す。舞は立ち上がり、朝食の礼を述べて、一礼した。何気ない、やり取りだ。数日前は、この窓際席に、荒垣が再び座る日が来るのかを、心配していた。舞は、荒垣の日常が戻って、嬉しく思った。
店を出て、通りに出ると、舞は、そっと窓越しの荒垣を見た。荒垣は、文庫本を手にしていたが、視線は一点に集中していた。険しい表情だった。
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