終章 02 ブレイン・バンク

 定時になると、舞は帰り支度を整え、救急病棟に向かった。


 荒垣の病室の前に来ると、中から話し声が聞こえた。舞がノックすると、すぐに、引き戸が開いた。角倉が、笑顔で迎えてくれた。病人らしく、荒垣は、ベッドの背凭れを利用して座っていた。お得意のニヒルな笑みを浮かべている。


「藤原先生から、錦城先生の栄養分析結果を聞いたよ。糖尿病の線は、間違いないだろう」


 荒垣は、顔色が良かった。起き上がっても、問題のない状態だと思える。舞は頷くと、荒垣に質問した。


「脳の解剖では、糖尿病の形跡は、あったのでしょうか?」


「日本のブレイン・バンクは、欧米と比べると、かなり遅れているからね。大した事実は、判明しなかったよ。脳梗塞は、間違いないけど。前頭葉の萎縮は、確認できたよ。怒りっぽい人の脳の特徴だ。認知機能を司る海馬領域も、狭かったね」


 ベッドの中で伸ばしている足を、荒垣が、モゾモゾと動かしている。じっと座っているのが、苦痛と見える。


「もし命を取り留めていても、近い将来、認知症になる可能性が高かったかもな。認知症になりやすい人の特徴に、糖尿病があるし」


 頷くと、舞は、質問を重ねる。


「神経やニューロンは、観察できたのでしょうか?」


「生きた人間の脳外科手術だと、観察できるんだけど。死者の脳だと、難しかったみたいだね。ここがアメリカの最新設備が整った医療機関なら、分かったかもしれないけど。執刀医の実力云々の前に、日本の医療の技術不足もあるよね」


 角倉が、舞と荒垣の顔を順番に見る。


「日本の精神疾患の研究としては、海馬や前頭葉の萎縮が確認できただけでも、大前進だと思うけどね」


 期待が大きかったため、舞は、ガックリと頭を垂れた。


 荒垣が、楽し気な表情で、舞の顔を見る。


「決定的な事実が判明するとでも、思ったのか?」


「錦城先生が亡くなった日の昼休み、研究室の前で怒鳴り声を聞いたので。興奮の伝達の跡が観察できればなぁと期待しただけです」


 脳の解剖結果では、錦城の他殺説を裏付ける証拠は出なかった。残る望みは、荒垣が突き止めた、二ヶ月前のデータだ。喜多川の話では、錦城の毛髪と唾液だった。


 錦城の他殺説で、動機があるのは、荒垣と優子だ。両者とも、お互いに不信感を持っている。角倉と喜多川は、舞に嘘を吐いている可能性はある。だが、この二人は、ある意味、部外者だ。角倉は、舞が浮浪者殺人事件の第一発見者である事実は、知らない。これ以上、巻き込んではいけない、と思った。


 舞は、荒垣の顔を真っすぐに見た。


「思ったより、お元気そうで、安心しました。明日の午後、改めて栄養分析のデータをお持ちします」


 舞は、二人に挨拶すると、病室を辞した。


 真実を探るために、荒垣と対で話す必要がある。今日は角倉がいたので、詳細な質問はできなかった。明日の夕方、西宮警察署の喜多川に会いに行く。それまでに、荒垣に確認したい事項があった。

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