第二章 23 アポトーシス(自滅)

 栄養部のオフィスへ戻ると、舞はノートPCを立ち上げた。報告書を完結に纏めて、帰宅の準備をする。小絵の手前、帰宅を装ったが、私服に着替えると、教育棟へ急いだ。人目に付かないよう、裏の小道を利用した。


 教育棟に入ると、優子の研究室へ向った。舞がドアをノックすると、「どうぞ」と優子の声が聴こえる。


「来ると、思っていたよ」


 優子が舞の顔を見て、静かに微笑む。優子の様子は、いつもと変わらない。


「錦城先生の件、お耳に入っていますよね?」


 優子がゆっくりと頷く。「だから何?」と言いたげな表情だ。


「角倉君からも連絡があったよ。私が行っても、邪魔でしょうし。そろそろ帰ろうかな、と思っていたのよ」と言いながら、優子が舞の眼を見る。


「何か、質問かな? それとも、私の心情でも訊きたいのかしら?」


 舞は、冷静を装い、言葉を選んだ。


「午前中の回診の報告を、と思いまして」


「角倉君から、だいたいの様子は、もう聴いたよ」


 優子は舞の顔を見ながら、コーヒー用の紙コップに手を伸ばした。


「そういえば、錦城先生の研究室のゴミ箱から、饅頭の包み紙が大量に発見されたそうね」


「氏鉄饅頭の包み紙ですよね?」


「メーカーまでは知らないわ。このフロアの掃除担当の女性が話していたみたい。錦城先生の研究室を出入りする可能性がある人たちに、辛嶋先生が様子を聞き回っているのよ」


「脳梗塞だったのですよね?」


「今のところね。錦城先生は、献体に登録していたから、近いうちに解剖されるでしょう」


「ご家族の承諾が取れ次第、すぐですか?」


「一般の人なら、待たされるけど、医局長だからね。大学側は興味津々でしょうし、すぐに解剖すると思うよ」


 優子の表情からは、悲しんでいる様子は見られない。


「舞さん、大丈夫? ビックリしたでしょう。私は人の死を客観視する習慣が身についているけど」


「私が先週、面会時にお持ちした《氏鉄饅頭》が、死期を早めたのかと思いまして。高血圧だと知っていたら、甘いお菓子は避けたのですが。皆さんで召し上がれるように、大箱を渡しましたし……」


「責任を感じる必要はないよ。いくら甘党とはいえ、自己管理できないのが悪いのよ。アポトーシスね」


 アポトーシスとは、医療用語で「細胞の自滅」を意味する。


「優子先生は、自業自得だと思っているのですね?」


「冷血だと、思われていそうね」


「錦城先生も、何らかの精神障害だったのでしょうか? お饅頭を大量に食べたり、感情を抑えきれず、声を荒げたり……」


「側近の辛嶋先生なら、錦城先生の心身について、思うところがあったかもね。私は、そこまで関心がなかったわ」


 優子も感覚の鋭い医師だ。錦城との対面時に、何も勘付かなかったのか? 舞は、優子の表情を見て、神々しいほどの冷気を感じた。優子が脚を組み替えて、口を開く。


「そろそろ帰宅したいのだけど、他に質問あるかしら?」


 舞は、礼を述べると、退室した。


 桐花の精神鑑定の行方は、錦城の死でどうなるのか? このタイミングでの、錦城の急逝は、単なる偶然か? 今日も、長い一日となった。

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