第二章 22 第二の死者

 小絵からの電話で、内科担当の管理栄養士の早退を知らされた。そのため、舞が午後から、内科病棟の栄養指導を代行した。内科での栄養指導は、糖尿病患者の指導が中心だ。大半の患者が高血圧や肥満であるため、食事療法が必須となってくる。


 食事内容を訊くと、常に菓子を食べたり、加糖飲料を飲んだりと、糖質過多であった。昼休みに角倉から聴いた、錦城の今朝の様子と重なった。


 糖尿病患者の食事パターンは、精神科病棟の患者と類似している。食事療法に入る前に、五日ほど流動食で過ごす断食療法を行うと、回復が早い。しかし、過食が癖になっている患者に、断食療法の実行は難しかった。結局、投薬で食欲を抑えたり、血圧を抑えたりして、経過を観察している。


 舞は、錦城の体形や顔色を思い浮かべた。肥満ではないが、「ずんぐりむっくり」の表現がピッタリだ。顔色は燻んでおり、やや赤ら顔だ。血流が悪く、高血圧だと推測できる。


 舞は、内科の栄養指導教室を見渡した。精神科病棟と比べると、平和だと感じた。


 十五時になると、舞は、精神科病棟に移動した。精神科病棟の栄養指導教室は、一階にある。外来用の診察室が六部屋あり、その奥に位置していた。窓のある部屋で、明るかった。一階の廊下には、診察の順番を待つ患者たちが、壁際の丸椅子に座っている。いつも錦城が使用している診察室は、出入り口の札が《空室》になっていた。


――今日は大学の講義か? それとも桐花の精神鑑定で、外出しているのか?


 医局長クラスの医師になると、外来患者の診察は、週に一度か二度程度だ。今まで、錦城の行動に注目した覚えがない。そのため、錦城の診察日を把握していなかった。だが、今日は何故か気になった。


 栄養指導教室に着くと、既に予約患者が部屋の前で待っていた。月曜日の栄養指導は、有給休暇を利用したサラリーマンやOLの姿もあった。外来患者なので、入院患者ほど重篤ではない。話の理解度も高く、笑顔も見られた。


 四名の栄養指導を終え、壁時計を見ると、五時になろうとしていた。戸締りを終えて、廊下に出る。もう診察の順番を待つ患者の姿はなく、閑散としていた。


 遠目に、音を立てずに小走りで移動する制服姿の事務員が目に入った。各診察室の上部の嵌めこみガラスは、まだ電灯が点いている部屋もあった。錦城が利用している診察室も、電灯が点いていた。だが、出入り口の札は《空室》のままだった。錦城本人かインターンが、忘れ物でも取りに来たのだろう。舞はそのまま、前を通り過ぎた。


 舞が階段を上りかけた時、呼び止められた。振り向くと、小絵だった。


「部長、どうかなさったのですか?」


 小絵の様子から、尋常ではない出来事があったと推測できる。小絵は、前かがみになり、両掌を太腿に押し付けて、呼吸を整えた。顔を上げると、舞の顔を見た。


「驚いたらダメよ。あのねぇ」と小絵は、右手を胸の上に当てながら、また呼吸を整える。


「錦城先生が、一時間ほど前に、お亡くなりになったの」


 舞は、遠目に見える、錦城用の診察室のほうを見た。


「錦城先生の診察室、電気が点いていましたが……」


「誰かが、何かを調べに来たのでしょうね」


「どこで、お亡くなりになったのですか?」


「教育棟の、ご自身の研究室よ。脳梗塞みたい。インターンの子が、見つけたそうよ」


 舞は、思わず顔を顰めた。


――今朝、大量に食べていた饅頭が、死期を早めたのか?


「何か、思うところがあるの?」と、小絵が舞の顔を覗き込む。


 小絵は、舞が浮浪者殺人事件の第一発見者である事実を知らない。先週の月曜日に、錦城と面会した事実もだ。舞は、小絵に悟られる前に、優子に会いたいと思った。


「いえ、急で驚いただけです。取りあえず、三階の事務室に行って、鍵を返却してきます」


 小絵が頷くと、一緒に階段で三階まで上った。事務室には、錦城派の医師らが集まっていた。辛嶋が先頭を切って、職員に何やら指示をしている。辛嶋の顔つきは、表面上は神妙そうに見える。だが、舞には溌溂として見えた。錦城の死で、次期医局長のポストに一番近い人物だ。


 角倉の姿もあった。角倉は今朝、月度報告で錦城の研究室を訪れている。辛嶋からの質問攻めは、必至だろう。角倉は、舞の姿を見ると、口をへの字にして、肩を竦めて見せた。


 舞は、そっと角倉に近付いた。小声で囁く。


「辛嶋先生に呼ばれたのですか?」


「どうせ呼ばれるだろうから、自主的に来たんだ」言葉を切ると、角倉は腕を組んだ。


「錦城先生、高血圧なのに、投薬を拒否していたらしいよ。新薬の開発をしていたから、薬を飲むのが嫌だったんだろうね」


「今朝の、お饅頭五個で血糖値の乱高下も災いしていますよね」


「恐らくね。誰が、錦城先生を怒らしたんだろう? 俺が話した時は、饅頭を食って、機嫌良かったけどな」


 舞は、事務室をそっと見渡した。泣いている者は、女性事務員の数名だけだ。錦城の死を悲しんでいる者は、少ないように思えた。小絵が辛嶋と話し終え、舞に近付いた。


「特に栄養部は、関連がないから、今日は帰宅してもいいそうよ。我々が長居しても、ご迷惑でしょうし、行きましょうか」


 小絵が、角倉に一礼し、その場を辞した。舞は素早く、角倉に囁いた。


「優子先生の姿が見えませんね」


「呼ばれてないのかもね? もしかして、まだ知らないのかな?」


 角倉が、白衣のポケットから院内用スマホを取り出した。


 舞も角倉に一礼し、小絵の後に続いた。

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