第二章 21 医局長室の怒鳴り声

 優子の研究室をノックしても、応答がなかった。緊急会議が長引いているのだろう。


 舞は、佐伯桐花の精神鑑定の内容が気に懸かった。錦城が優子に詳細内容を伝えるとは思えない。新薬の正式導入の件だろうか?


――今、考えても仕方のない内容だ。


 舞は思い直すと、南側の荒垣の研究室へ向った。今朝の別れ際の荒垣の表情を思い返すと、会いたい気分ではない。だが、忘れ物は届けたい。廊下を歩きながら、レジ袋を取り出し、文庫本を入れた。荒垣の研究室の前まで来ると、ドアノブにそっとレジ袋を掛けた。


 舞は、静かに立ち去り、関係者用の階段に向かった。ちょうど学生の昼休みの時間帯のため、一般用の階段やエレベーターは人で一杯だ。関係者用の階段は、錦城の研究室の前を通り過ぎた先にある。


 錦城の研究室の前に差し掛かった。換気のためか、ドアがキチンと閉まっていなかった。そのまま通り過ぎようとした時だった。


 中から怒鳴り声が聞こえた。錦城の声だと推測できる。舞は、実際に錦城が怒鳴っている姿を目撃した経験はない。だが、錦城が部下や看護師を怒鳴りつける事実は、院内でも有名だ。先日、訪問した時に、舞を出迎えたインターンの姿が思い浮かんだ。


 舞は、徒ならぬ気配を感じ、足早に通り過ぎた。


 関係者用の階段を利用するには、セキュリティ・カードを翳してドアを開ける必要がある。七階の学食エリアに入ると、緊張から解き放たれた。


 学食は混み合っているので、料金がやや高めのフードコートに移動した。薬膳料理を出すコーナーに、角倉の姿があった。遠目に舞の姿を見つけて、手招きしている。


 舞は、錦城の怒鳴り声を聞いた後だったので、角倉の姿を見て、安心感を覚えた。


「優子先生、まだ戻っていなかったの?」


 舞は頷くと、角倉の向かいの席に座った。


「薬膳ランチとは、さすが漢方医ですね」


「でかい声で言えないけどね。学生には薬膳ランチ、人気がないみたいで、空いているんだ。旨いのに、良さがわからないんだろうね」


 角倉が一瞬、残念そうな表情になったが、すぐに舞の眼を見た。


「さっきの舞ちゃん、怖いものから逃れてきたような表情だったね」


 舞は、内心、驚いた。角倉のフランクな雰囲気からは想像しにくいが、頭の中では人の行動や表情を、瞬時に分析しているのだろう。


「たまたま錦城先生の研究室の前を通ったら、怒鳴り声が聞こえたので」


「初めて聞いたのか? それなら、ビックリするのも無理ないね」


「オドオドしているように、見えましたか?」


「そうは見えなかったけど。もしかして怖い目に? と思っただけだよ」


「一瞬の表情でも、お見通しなのですね」


 舞の前に薬膳ランチが運ばれてきた。舞は角倉の顔を見た。


「同じもので悪いけど、遠慮なく食べてね」


 舞を手招きすると同時に、角倉は舞のランチも注文していたらしい。角倉の育ちの良さが、垣間見えた。


「角倉先生も、錦城先生と対でお話する場面、あるのですか?」


「精神科のトップだから、一応、上司だしね。月に一度は報告に行くよ。それも今朝が報告日だったんだ」と角倉が愉快そうに笑って、静かな声で続ける。


「八時半に研究室を訪ねたら、好物の氏鉄饅頭を食べていたよ。俺の報告を聞きながら、五個は食べていたね。デスクに大きな箱をボンって置いて。そこからスナック菓子を食べるみたいに次々と。さっき怒鳴っていたのも、饅頭の食べ過ぎで、低血糖だったんだよ」


 錦城の机上にあった大きな菓子箱は、先週、舞が届けたものだと推察できる。


「皆さんで、どうぞ」の意味を込めて、四十八個入りの大箱を渡した。一人で食べていたのだろうか? 賞味期限は二週間なので、あり得る話だ。


「甘党だと、お聞きしていましたが、一気にお饅頭を五個も?」


「フラストレーションが溜まっているんだろうね。『医者の不養生』も、いいとこだね。なんか、せっかくのランチが悪口になったね」


「いえ、貴重なお話が聞けましたわ」


 舞は、一旦、話を切ると、話題を変えた。


「そういえば、荒垣先生と仲良しなのですよね?」


「俺は仲がいいと思っているけど、向うはどう思っているのかな? 小学生の時から知っているからなぁ」


「幼馴染だったのですか?」


「小学生の時、塾が一緒だったんだ。違う中学へ進学したけど、大学で一緒になるとはなぁ。大学の時から、研究熱心でね。ガリ勉ではなくて、研究を楽しんでいる感じだったな」


「確かに、解剖学の質問に行くと、説明が的確ですね。素人が聞いても理解できる内容に、嚙み砕いてくれるのです!」


「普段から、医学知識のない人たち相手に、解剖結果の説明をしているからね」


「荒垣先生の小学生の時って、どんな感じだったのですか?」


 と舞が訊ねると、角倉の表情が、一瞬、ニヤリとした。


「低学年の時は、塾の成績が抜群だったよ。でも、震災の後、成績が落ちて、絵ばかり描くようになったんだ。それも理科で習う、人体の。結局、芦屋にある坊ちゃん学校に進学したけどね。お母さんが犠牲になられたから、ショックだったんだろうね」


「いつも冷徹な荒垣先生でも、心を乱した時期があったのですね」


「正真正銘のお坊ちゃん育ちだし、昔はナイーブだったんだろうね」


「そんなにお育ちがいいのですか?」


「昔、芦屋の駅前に、大正時代から続く《大紋堂たもんどう薬局》があってね。それが荒垣の実家だった。今は大手のドラッグ・ストアになっているけど。それこそ、芦屋医大が、まだ《芦屋脳病院》の時から、処方薬を扱っていたと思うよ」


 舞は、荒垣が以前「生きてる人間が、一番めんどくさい」と話していたのを思い返した。


「人体の絵ばかり? 当時から解剖医の素質があったのですね」


 角倉が頷く。

「小学生の時から、一匹狼っぽい雰囲気はあったね。大学の時も、いつも単独行動だったし。誰が誘っても、飲み会には来ないし」


「角倉先生には打ち解けていたのですね?」


「三回生の時に、解剖実習で、荒垣と同じ班になったんだ。情けないけど、俺は初めて直面する遺体に失神しそうになってね。そしたら荒垣が、『震災を忘れるな!』って俺に活を入れたんだ。そこからだね。よく話すようになったのは。不幸自慢じゃないけど、俺の実家も全壊したからね。家族は全員、無事だったけど」


「私は、まだ小さくて、震災の記憶がありませんけど。お二人とも、震災を乗り越えたから、ハングリー精神が芽生えたのでしょうね」


 角倉が静かに笑っている。


「俺らの世代だけじゃなくて、優子先生も震災で苦労したと思うよ。旦那さんがね……」


 角倉が言いかけた途端、舞の院内用スマホが振動した。


「続きは、また近いうちに」と、角倉が小声で囁くと、席を外した。


 スマホの表示は、栄養部長の小絵からだった。

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