終章 19 動機
四月中旬の土曜日、舞は、伯母夫婦が経営するレストラン《ザ・タイム》のテラス席に座っていた。午前中のカフェ・タイムの時間帯なので、客も疎らだ。
《ザ・タイム》の所在地は、標高三百㍍ほどの甲山から近く、舞が住む平地よりも気温が低い。そのため、テラス席からは、満開となった遅咲きの桜が見渡せた。
伯母の麻生菫が、ソイ・ラテを運んでくる。舞の姿を、不思議そうな様子で見ていた。
「舞ちゃんのワンピース姿、久しぶりに見たわ。その服装で、マウンテン・バイクに乗って来たの?」
「今日は、車で来たよ。職場でお世話になっている先生が、サナトリウム病院に用があるから、ついでに乗せてもらったのよ。ここでランチをご一緒するから」
「失礼のないよう、おもてなしをするわね。何人ぐらい、いらっしゃるの?」
「私と二人だけよ。テラス席でいいから、予約も入れてないし」
何かを悟ったのか、菫が笑顔で、厨房に戻って行った。
菫の姿が見えなくなるのを確認すると、舞は、愛用のノートを開いた。ノートには、荒垣から見せてもらった調査書の内容を記している。供述調書の一部を書き写したのか?
調査書は、北島楓の話し言葉で綴られていた。裁判の傍聴記録や本人による手記のようにも、思えた。お気に入りのテラス席で、舞は、改めてノートを読み返した。
北 島 楓 (三十二歳)
一、錦城医師に贈呈した四十個入りの氏鉄饅頭に、塩化カリウムを注入した事実を認めます。錦城医師は、気に入った菓子を大量に食べる習性があった上、高血圧や糖尿病の兆候もありました。そのため、自然死に見せかけるのは、容易だと考えました。
錦城医師は、菓子折りを頂いても、部下に分け与える前例はありませんでした。ですが、他者に与えるケースも鑑み、一つ一つの饅頭に、致死量の塩化カリウムは入れていません。
氏鉄饅頭は、個包装に紙が利用されています。包み紙の裏側から、細い針で刺して、注入しました。
二、佐伯桐花さんを、錦城医師に紹介した事実を認めます。
私は薬剤師として、新薬モーニスコプラの治験に関して、服用患者や協力クリニックのリストを管理していました。それと同時に、錦城医師の極秘研究も手伝っておりました。極秘研究は、新薬の副作用が、どのように現れるかの調査です。
研究対象に最適な人物として、佐伯桐花さんを紹介しました。理由は、個人的な感情から、佐伯家を困らせたい、と考えていたからです。
初めは、桐花さんを腹違いの妹だと思っていました。尼宝女子大を卒業してからも、定期的に恩師を訪ねており、その時に、桐花さんに近付きました。
母は、選択的シングル・マザーの道を選び、妊娠は精子バンクからの人工授精によるものです。四年前に母が他界した後、遺品の中から、父親に関する情報を得ました。
本来なら、精子バンクに登録された父親の本名は、明かされません。ですが、母は調べたようです。今から三十二年前に、大阪大学経済学部に在学していた加瀬隆介さんの精子でした。加瀬さんのその後を調べて行くと、現在の佐伯隆介氏だと分かりました。
やがて桐花さんが、薬学部の実習で、DNA鑑定の応用実験を行い、その日を境に、精神状態が不安定になりました。私は、極秘に実験データを突き止めました。桐花さんは、佐伯夫妻の実子ではありませんでした。
その時、佐伯氏の実子である私は名乗れず、他人の子である桐花さんが、父親のもとで優雅に育った経歴を、疎ましく思ったのです。
実子がいるとも知らず、金持ちの婿養子に収まった実父への怒りも募りました。今から思えば、佐伯氏にも罪はありません。ご本人が知る必要のない事実を、亡き母や、私の勝手な行動で明かされ、ご迷惑を掛けたと思っております。
サナトリウム病院の診察に来るたびに、桐花さんの副作用が強く出てきました。豹変ぶりを目の当たりにし、不安が募って来ました。錦城医師には、極秘研究を止めてもらうよう、何度も説得しましたが、聞き入れませんでした。
私の不安は、現実となりました。桐花さんが浮浪者殺人事件を起こし、驚愕しました。
本人の記憶がないとはいえ、桐花さんに人を殺めさせた事実は、私の責任です。錦城医師の極秘研究は、厚労省に提出するデータには含まれていなかったので、暴露する必要がある、と思いました。
何としても、この新薬の製造と販売は、阻止しなければいけないと、強く思いました。
三、荒垣医師の甜茶を、毒性のある額紫陽花の葉を煮出した液体と掏り替えた事実を認めます。
錦城医師が、脳梗塞で急逝し、毒物も発見されていないと知り、安堵していました。
錦城医師が献体登録をしていた事実は、承知していました。医局長クラスなので、早めに解剖されたとしても、一週間以上は後だと考えていました。
しかし、錦城医師はブレイン・バンクの登録であったため、迅速解剖が行われました。すぐに解剖となると、カリウム値が高い事実が判明します。解剖の分析を阻止するために、執刀医の荒垣医師の甜茶を掏り替えました。殺意はありませんでした。食中りで、一週間ほど入院すれば、作業が中断すると考えたのです。
額紫陽花の葉は、学内の植え込みから採取しました。その際、変装も兼ねて、髪をアップに結い上げました。人気ひとけの少ない、十九時過ぎに、行動したと思います。
私の目論見通り、荒垣医師が緊急入院しましたが、またもや、予想外の流れになりました。荒垣医師は、栄養部に錦城医師の胃の内容物の栄養分析を依頼していました。本来の解剖手順には、入っていない工程です。
栄養分析は、角倉医師と管理栄養士の宇田川舞さんが行い、糖尿病の疑いが強いと、知らされました。その時点では、血糖値や脂質の異常値が注目され、カリウム値が高い事実は、誰も気付いていませんでした。
四、宇田川舞さんの鎖骨下動脈に、高濃度の塩化カリウムを注射針で刺した事実を認めます。
桐花さんの精神鑑定を担当していた錦城医師は、連日、私を呼び出しては、罵倒していました。興奮した錦城医師は、極秘事情も、饒舌に話し、浮浪者殺人事件の第一発見者が宇田川さんである事実も、漏らしていました。
宇田川さんは、錦城医師の胃の内容物の栄養分析も行っています。研究熱心な宇田川さんが、カリウム値の異常に気付くのは、時間の問題だと思いました。
できる範囲内で、宇田川さんの尾行を開始しました。警察に出入りしている事実も、錦城医師の死は、他殺だと疑っている事実も、分かってきました。
錦城医師の極秘研究を公にするまで、誰にも邪魔をされたくありませんでした。そのため、宇田川さんの行動を止めたかったのです。
宇田川さんに対しても、殺意はありませんでした。宇田川さんの健診結果を調べると、健康そのものでした。高濃度の塩化カリウムを一時的に投与しても、死には至らないと思い、実行に移しました。
五、拘束される直前の深夜、角倉医師の自宅マンション前におりました。この時点で、自首するしかないと悟っていました。自首する前に、最後にお会いしたかったのです。殺意は、ございません。
六、錦城医師に殺意を抱いたのは、浮浪者殺人事件からです。
錦城医師は、新薬のプレス発表前に浮浪者殺人事件が起きたので、かなり焦っている様子でした。話の内容は、副作用の被害者が出た事実よりも、自身の名誉についてでした。違法な研究を反省する意思は、全くありませんでした。
以前、学内の噂で、錦城医師には、黒い噂が多い、と聞きました。亡くなった部下の研究を我が物にしたとか、側近の薬学博士の方が、神経衰弱で亡くなったとか。もし、噂が事実なら、隠しデータがあると思い、錦城医師専用のLANを追及し始めました。
その時に、偶然、錦城医師が糖尿病である事実を知りました。毛髪と唾液を解析したデータを発見したのです。ご自身で解析していたようです。データの日付は、昨年の八月中旬でした。
コンピューターの暗号を追跡しているうちに、荒垣医師と仁川医師も、隠しデータを探していると察しました。私のプログラム・スキルでは、彼らに見破られます。副作用の隠しデータは諦め、サナトリウム病院での極秘研究を公表しようと、策を練りました。
しかし、錦城医師の連日の罵倒に疲れ果てていたため、殺意は本物に変わって来ました。
錦城医師がいなくなれば、救われる人が多い、と感じていました。
一方で、自身のフラストレーションや、錦城医師への殺意が消えて欲しい、と願っていたのも事実です。その一心で、私も少量の新薬を服用しました。副作用の怖さは承知していましたが、少量なら、興奮神経が静まると考えたのです。
しかし、日に日に不安が増し、新薬の服用量が多くなってきました。軽い依存症になっていたと思います。夜も眠れなくなり、睡眠不足も重なって、錦城医師への殺意も大きくなりました。
殺人の計画を練る自分自身と、それを阻止しようとする自分自身が、いつも私の中で交差し、葛藤に耐え切れなくなりました。やがて、殺人計画を練る自分自身の存在が大きくなりました。
七、錦城医師の殺害計画について、述べます。
浮浪者殺人事件以来、錦城医師は、私の顔を見ると、罵倒するのが習性になっていました。錦城医師が糖尿病だと分かっていたので、脳梗塞や心臓発作を起こすリスクも高い、と判断しました。
錦城医師が興奮する機会を多くするため、頻繁に研究室を訪ねるようにしました。目論見通り、私の顔を見るや否や、罵倒しました。
私も、神経が異常になっていたのでしょう。「錦城医師が罵倒すると、死が近付く」と北叟笑むようになりました。
ある日、氏鉄饅頭の大箱が机上にありました。いつもは、自身で購入する、六個入りの小箱でしたが、大箱なら、数十個は入っています。
研究室を訪れる度に、どのぐらいのペースで食べているかを観察しました。好物となると、歯止めが利かないタイプで、あればあるだけ食べているようでした。
大箱から饅頭がなくなるころを見計らって、私も大箱の氏鉄饅頭を差し入れました。塩化カリウムは注入済みでした。後は、大量に饅頭を食べ、興奮して怒らせるように仕向け、高カリウム血症が起きるのを待ちました。錦城医師の病態で高カリウム血症が起きると、脳梗塞か心臓発作で、死に至ると考えました。
錦城医師の急逝の知らせを聞いた時は、「もう被害者は出ない」と、安堵しました。
錦城医師が亡くなった当日、お昼の会食を同席しましたが、昼食に、毒物は混入していません。
八、私自身も、新薬の副作用で、神経が昂っておりました。今は、薬の副作用もなく、本当に非道な事態を起こしたと、深く反省しております。
錦城医師が行った新薬の研究は、許されるものではありません。ですが、亡き者にする必要はなかった、と後悔しています。
佐伯桐花さんの行動は、新薬の副作用が原因です。私が申し上げた事実で、無実になるよう、願っております。
被害者の冥福を祈り、罪に服する存念です。
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