終章 18 半年後
優子が、芦屋医大を去ってから、半年が過ぎた。芦屋医大は新年度を迎え、キャンパス内は、桜が美しかった。新しい人事も発表され、医局長代理だった辛嶋が、四月から医局長に就任した。講師だった角倉も、准教授に昇格している。
優子と会ったのは、昨年の十月中旬、舞が、芦屋医大のVIP専用の病室に運ばれた夜が最後となった。当初、優子の不在は、長期アメリカ出張だと、周知されていた。年が明けてからは、そのまま、芦屋医大の提携大学へ赴任し、数年は帰国しない旨が発表された。
だが、舞は、内々に辛嶋に呼ばれた。以前は苦手であった辛嶋も、今は、舞の大学院での指導教員である。優子が、引継ぎの際、辛嶋に託していた。
舞が辛嶋の研究室を訪れると、にこやかに迎えてくれた。
「今日、来てもらった件だけどね。優子先生のその後についてだ。宇田川さんには、事実を知らせておこうと思ってね」
辛嶋の表情から、悪い報せではないと思える。
「日本に、いらっしゃるのですよね?」と舞は、間髪を入れずに質問した。
「察しがいいねぇ。今は、自宅マンションを処分して、佐伯一族が所有するマンションに、身を寄せているよ」
「お会いできるのですか?」
と舞が訪ねると、辛嶋が、残念そうに首を横に振った。
「判決待ちの身分だから、誰にも会わないと思うよ。引継ぎも、メールとインターネット会議だったし」
「戸籍改竄の罪は、もう時効を迎えていますよね?」
辛嶋が、何度も首肯する。
「優子先生と佐伯夫妻の罪は、『公正証書原本等不実記載罪』が、正式名称だ。時効は五年。既に時効を迎えているから、法律上の罪には問われてない。優子先生が、佐伯夫妻に対し、親子関係不存在確認の調停・訴訟を申し立てるそうだ。裁判が確定したら、戸籍が訂正される。その日も、近いみたいだね」
舞は、前のめりになり、念を押すように、辛嶋に質問をした。
「親権争いの裁判には、なりませんよね?」
辛嶋が笑みを浮かべながら、頷く。
「実子の戸籍を訂正するには、他に手段がないそうだ。優子先生と佐伯夫妻が、決別するための裁判では、ない」
桐花の精神鑑定は、錦城が亡きあと、辛嶋が引き継いでいる。舞は、辛嶋の守秘義務の立場を鑑みて、桐花についての質問は控えた。
優子が裁判を起こすにあたり、桐花の意思確認が必要だ。話が進んでいる様子を察すると、桐花の精神状態が落ち着き、現実の親子関係を受け入れた、と思えた。
辛嶋によると、優子は、精神科での栄養療法や、大学の授業の講義などを、前もって整理していた。優子の希望で、受け持ち授業や患者の回診は、角倉に引き継がれていた。
その後、優子は辞表を提出している。昨年の十月末であった。だが、優子の事情を全て承知した上で、辛嶋が保留にした。
辛嶋が、話題を変える。
「新薬の件だけどね。次回の合同カンファレンスでも話すけど、販売中止の方向だ」
舞は、安堵の気持ちと同時に、損失額の大きさが気に懸かった。新薬モーニスコプラは、現在、販売延期となっている。プレス発表の内容は、主成分ボルテキセチンの濃度調整だった。愉快そうな表情で、辛嶋が続ける。
「芦屋医大側は、錦城先生の隠しデータを井田製薬に公表し、販売を中止する考えだ。茂森理事長の采配で、井田製薬には、和解金を支払って、納得してもらうよ」
錦城の隠しデータとは、仁川祐司と荒垣政勝が実証した副作用のデータだ。ボルテキセチン自体は、アメリカの化学者により、近年、正式に認められた物質だ。そのため、祐司が考案した物質にはならない。辛嶋が、さらに続ける。
「仁川君が発見した《名のない物質》は、現在のボルテキセチンの化学式と類似している。ボルテキセチンが正式発表される前のデータだけど、副作用の実証には、充分な威力がある、と芦屋医大側は結論付けたんだ」
「反対される教授陣も、多かったでしょうね?」と舞は、訊ねる。
「損失額を考えると、頭の痛い話だし、一時的に恥を掻くかもね。だけど、強力な副作用による被害者が続出したら、それこそ、芦屋医大も井田製薬も、致命傷になるからなぁ」
辛嶋は、野心から医局長のポストを引き受けた訳ではなかった。新薬モーニスコプラの販売中止を巡って、これから様々な問題が出てくる。浮浪者殺人事件も、北島楓の犯行も、その一環だ。自身が医局長となって、問題解決に臨む覚悟があるようだ。
辛嶋の話題が変わる。理事長の茂森正雄の判断力に感服しているようだ。事実、浮浪者殺人事件のその後の展開と、錦城の死の真相は、マスコミで騒がれる事態はなかった。これらも、茂森正雄の采配だと、考えられた。
一連の事件の真相は、時折り、荒垣から情報を得た。早朝、カフェ《ブリック》で落ち合うと、荒垣は舞に調査書を見せてくれた。暗黙の了解で、重要な点は会話にしなかった。
調査書を見せてもらった日は、帰宅後、舞は、必ず愛用のノートに、概要を書き留めた。
調査書の出所は、《小出弁護士事務所》だと思われる。荒垣が、調査を依頼しているのか、西宮警察署の喜多川の配慮なのかは、分からない。舞は、後者だと考えていた。
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