終章 17 オートファジー
優子は一息つくと、憂いを秘めた表情で口を開いた。
「誠実な隆介さんに、実子の事実があったとは。智代と出逢う前の出来事だけど。智代は、どう思うのかな……」
舞は、優子の顔を覗き込んだ。冷静を装っているが、北島楓が、隆介の実子である事実に、躊躇している。
「甲神学園の創設者一族に、隠し子説があるって噂を、お聞きになりましたか?」
優子が、悲しげに頷く。
「桐花は、帰国子女枠で、甲神学園の中学に入学したのよ。苗字が佐伯だから、創業者一族の縁故入学だとか、隠し子だとか、噂の対象にされていたみたいね。ドライな性格だったから、噂に動じてなかったみたいだけど。智代が心配してね。その上、錦城先生の息子さんが同級生だった事実も重なってね。薬学部があるからと、桐花に納得させて、中学三年生から、尼宝女子大の付属中学に編入させたのよ」
「錦城先生の息子さんから、嫌がらせを受けていたのですか?」
と舞が訊ねると、優子が皮肉っぽく笑った。
「親の心配は余所に、仲が良かったみたいよ。同じクラスに、顕微鏡マニアの男の子がいて、理科の実験が楽しいと、家で話していたの。智代が、それとなく名前を訊いたら、錦城先生の息子だと分かったのよ。運命の悪戯って、あるんだなぁと思ったわ」
「佐伯智代さんは、桐花さんが浮浪者殺人事件の被疑者だと、承知しているのですよね?」
優子が、深呼吸をする。
「隆介さんは、事実を承知しているわ。ハッキリと話題にはしないけど。智代には、桐花が夢遊病で保護されて、隔離施設に入ったと、伝えてあるの。それだけでも、ショックを受けているのに、この上、隆介さんの実子問題を知らせるのは、酷よね」
気丈に語っているが、優子の心のダメージも、かなり大きいと予想できる。優子の表情に、疲れが見えた。
「安全だと思った尼宝女子大に、隆介さんの実子がいたとはねぇ。それも、DNA鑑定の証拠付きで。私のすぐ傍にいたとは……」
舞は、科学的根拠のある事実しか、信じない性質だ。だが、亡き祖母がよく話していたフレーズを思い返した。
――悪事を働いたら、その時はバレなくても、神様が見ている。いつか、罰が下るのよ。
優子と佐伯夫妻の過去は、悪事ではなく、桐花を守るためだった。だが、その場しのぎの《誤魔化し》で、結局、桐花を苦しめた。
――もし、私が優子先生の立場なら? 錦城先生さえいなければ、と思ったかもしれない。
舞は、やるせない気持ちで胃がキリキリと痛んだ。錦城にもある意味、罰が下ったと思えた。優子は、前髪を右手で掻き上げると、大きく息を吸い込んだ。
「本来なら、北島さんは、桐花を陥れた憎き敵なんだけど。どうしてかな。憎めない。北島さんも、新薬関連の被害者だと思えるのよね」
優子の言葉に、嘘はないと、思えた。個人的な感情を露わにせず、精神科医として、楓の心境を分析している。全てを語り終えると、緊張の糸が緩んだのか、優子が小さく欠伸をした。窓際のデッキ・チェアを指差しながら、優子が、穏やかな笑みを浮かべる。
「今日は、ここで眠らせてね」
毛布に包まると、優子は舞の顔を見た。
「舞さんには、オートファジー機能があるようやね」
眠くなりかけていた舞は、頭をフル回転させる。オートファジーとは、生物学の専門用語だ。細胞内の古くなったタンパク質が、新しく作り替えられる仕組みを意味する。
「過去を突き止めて、真実を追い求めたからですか?」
優子が、大きく一度、首肯した。
「古い組織や偽りの過去は、清算しなくてはいけないのよ。人間の営みも、どこかで淀むと、軌道修正されるものなのね。細胞のオートファジー機能と、一緒だなぁと思ってね」
毛布から、両腕を出すと、優子が続ける。
「きっかけを作ってくれたのは、舞さんよ。一連の事件解決も、個人的には舞さんの手柄だと思っているのよ」
そして、優子は目を伏せると、ポツリと呟いた。
「最後まで、修士の指導ができないのが、残念だわ……」
優子は、「おやすみ」と発しながら、顔を窓側に向けた。
優子の教えを乞う日は、本当に終わる。舞は、そっと目頭を押さえた。
舞が眠りに落ち、目を覚ますと、六時を回っていた。
窓際のデッキ・チェアを見ると、優子の姿はなかった。
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