第二章 03 白い女の正体
金曜日の午後、舞は、外来の患者の栄養指導を行った。外来で栄養指導を希望する患者は、精神疾患の症状が和らいで来ている。だが、稀に暴れ出す患者もいるため、二名の看護師が就いていた。この日はトラブルもなく、定時で仕事を終えることができた。
着替えを済ませ、舞はマウンテン・バイクに跨った。行き先は《西宮警察署》だ。
《西宮警察署》は、管轄地区人口が約三十六万人。兵庫県内で最大の大規模警察署となる。
西宮市は、甲子園などの鳴尾地区周辺を《甲子園警察署》が担当し、その他の地区を《西宮警察署》が管轄している。《甲子園警察署》の管轄地区人口は約十三万人なので、その約三倍規模だ。
舞は《西宮警察署》の中に入り、受付窓口に向った。喜多川との面会を告げると、椅子に座って待つよう促された。愛想の良い、年輩の警察官だった。
一分も経たないうちに、喜多川が笑顔でやって来た。舞は、刑事課に案内された。天井や壁をサッと見回す。学校の職員室のような雰囲気だ。壁には勤務表が貼られている。今日の喜多川は当直、明日は休日のようだ。喜多川が自席の前に立ち、舞に椅子を勧めた。
「証人としてお話を訊きたいので、リラックスしてくださいね」
喜多川が、紙コップに入ったコーヒーを舞の前に置いた。舞は笑顔で礼を述べ、喜多川と並んで座る。喜多川が、舞の様子を見ながら、口を開く。
「今日の午前中、被疑者の意識が戻りました。何も、覚えていませんでした」
舞は前のめりの体勢で、喜多川の次の言葉を待った。
「被疑者の行動を目撃して、薬の副作用ではないか? と仰いましたね。その辺りを、もう少し教えていただけませんか?」と言いながら、喜多川がデスクトップを操作する。
「薬物反応があったのですね?」と舞が訊ねると、喜多川の視線が、舞の顔に移った。
「今お答えできるのは、違法薬物の検出がなかった事実だけです」
「精神科や心療内科の通院歴はありましたか?」
舞は、微かな喜多川の眼の動きを見逃さなかった。
「これから分かって行くでしょう。先ほどの質問に関して、いかがですか?」
舞は、昨日の合同カンファレンスで聴いた新薬の発表を反芻した。
「多分、今日の晩のニュースで、井田製薬の新薬『モーニスコプラ』のプレス・リリースがあるはずです。主成分は『ボルテキセチン』。井田製薬と芦屋医大の共同開発です。治験で芦屋医大の患者が投薬の対象になっています」
喜多川が首を少し傾げ、「芦屋医大の患者さんだけですか?」と訊いて来た。
「芦屋医大出身の心療内科クリニックにも、協力してもらいました。特に阪神間には、多いですから」と舞は、答える。
「被疑者の行動は、その化合物の副作用だと思われるのですね?」
喜多川の質問に、舞は何度も頷いた。
「ただ、『ボルテキセチン』は市販薬には含まれてない成分です。医師の処方箋なしで服用するのは難しいはずです」
有益な情報だったのか? キーボードを打ち込む喜多川の頬が、微かに緩む。
喜多川が入力している隙に、舞はデスクトップの画面を凝視した。舞は幼少の頃から視力が良い。成人した今でも二・〇だ。喜多川が打ち込むエリアの上方に、被疑者の個人情報がある。舞は、小さな文字列を記憶した。
――佐伯桐花さえききりか、二十六歳、尼宝あまほう女子大学薬学部・休学中。住所は、西宮市神……。
喜多川がデスクトップの画面をスクロールした。住所までは、記憶できなかった。西宮市内の「神」が付く町名だ。夙川沿いなら神園かみぞの町だろう。
薬学部の学生なら、必修科目に『生理学』がある。休学中でも二回生までに修得しているはずだ。被疑者は舞の予想通り、ヒトの急所を知っていた。
喜多川がさらに質問を続ける。
「思い当たる副作用を、お話しいただけますか?」
舞は両手を太腿の上に置いて、背筋を伸ばした。
「ボルテキセチンの副作用に、二十五歳以下の自殺願望やセロトニン症候群があります。逆に減薬すると、離脱症候群に陥るケースもあります」
喜多川が相槌を打ちながら、話の内容を入力して行く。
「被疑者の行動は、セロトニン症候群か、減薬時の離脱症候群だと考えられます。セロトニン症候群は、鬱状態を押えますが、躁状態になる可能性も高くなります。躁状態の時に、ヒトは突飛な行動に出ます。二十五歳以下は、特に副作用を起こしやすい薬物ですし」
喜多川がタイプする手を止め、舞の顔を見る。
「副作用が出やすい年齢は、正確なものなのですか?」
舞は、間髪を入れずに口を開いた。
「平均値です。ボルテキセチンは二〇一三年にアメリカで発表された化合物です。その後、約七年間の統計データで割り出された年齢なので。薬の効き目や副作用は個人差があります。華奢な女性なら、二十五歳を過ぎても若年層に見られる副作用は出るかもしれません」
喜多川が何度も首を縦に振りながら、猛烈な勢いでタイプした。
「治験の対象人数は、わかりますか?」
舞は、視線を落として、記憶を辿る。
「確か、五百二例のはずです。ただ、患者さんが報告してくれないケースもあります。その状況を鑑みると、新薬のサンプルを渡した患者さんは、六百人以上いるでしょうね」
喜多川がタイプする手を休め、視線を彷徨わせる。
「なるほどね」と小さく呟くと、舞の顔をチラリと見た。舞に考えを明かす気配はない。デスクトップに向き直り、タイプした。舞は、画面を凝視する。
――リスト要請。
一瞬であったが、舞には、そう見えた。喜多川が舞に視線を移す。
「被害者のことですけど。以前、何処かで見た記憶はありますか?」
「浮浪者は、どなたも一緒に見えますからね……」と舞は、首を傾げた。
「発見した時に、印象に残ったことは?」
「浮浪者にしては太っているな、と思ったぐらいですね」
喜多川が眼を大きく見開いて、舞の顔を見る。
「浮浪者が太る理由は、何だと思いますか? 専門家の意見としてお訊きしたいですね」
被害者の胃の内容物が検出できたのだろうか? と思いながら、舞は口を開いた。
「芦屋や西宮も阪神沿線の海側に行くと、浮浪者がよく出没すると聴きます。ファスト・フード店やファミレスが多いからでしょう。深夜の人気ひとけが少ない時に、ゴミ箱を漁って、結構ご馳走を食べているようですね。見たことは、ありませんけど」
舞は、喜多川の横顔を見ながら、視界の隅で画面を盗み見た。浮浪者の個人情報欄は、空欄のままだ。
「推定年齢は五十五歳前後。高血圧・肥満症の疑いあり」とある。荒垣の名前も確認できた。押収された凶器の写真も小さく見える。柄にガラス細工が施された、優美なペーパー・ナイフだった。
喜多川が椅子の向きを変え、舞を見る。満面の笑顔だ。
「大変、参考になりました!」
捜査上の手掛りになったのか? 心の底から笑みを湛えている。舞は敢えて質問をしなかった。舞の知りたかった情報は、目視で記憶できた。喜多川が自転車置き場まで見送ってくれた。舞は一礼すると、マウンテン・バイクに跨り、家路へと向った。
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