第三章 04 胃の内容物を分析

 水曜日の午後、舞は解剖実習室の会議室にいた。早速、錦城の胃の内容物の分析が行われる。初日なので、優子と辛嶋も同席した。荒垣がノートPCを操作して、プロジェクターに資料を映し出す。


 壁時計が二時を指すと、法医学教室の室長、藤原が入室した。小柄だが、眼光が鋭く、日に焼けた、引き締まった体型をしている。七十代だが、髪も黒々としていた。荒垣の隣に着席すると、反対隣の空席を見た。


「時間なのに、まだ一人、揃っていないのか?」


 藤原が言い終わらないうちに、神経質そうな表情の若い医師が駆け込んで来た。


「お申しつけの資料が見つからなかったので、遅くなりました」


 ペコペコと頭を下げながら、着席する。舞が以前、錦城の研究室を訪ねた時にいた、インターンだった。首に下げているネーム・カードを見ると、高出利樹たかいでとしきとなっていた。


 藤原は、高出の言い訳に頷くと、集まったメンバーを見渡した。舞に目を止める。


 舞も真っすぐと藤原の眼を見た。険しい表情の藤原が、フッと頬を緩ます。


「優子先生と荒垣君が推薦するだけあって、気丈そうだね」


 優子の横顔をそっと見ると、誇らしげに微笑んでいた。舞は、昨日の《御影ホテル》レストランのウェイターの言葉が脳裏に浮かぶ。優子の舞を見る表情が、娘を見るような眼差しだと。舞は頭を切り替えると、藤原を見た。


 藤原は、高出から受け取った資料を、パラパラと捲っている。目当ての資料がなかったのか、厳しい表情で首を傾げている。再度、メンバーを見渡すと、口を開いた。


「錦城君のご遺体の解剖結果を、説明します。細かい作業は、荒垣君がやってくれたんだけど。一応、今回の解剖の責任者は、私になっているのでね」


 藤原が実験ノートを開く。付箋を付けたページにサッと目を通す。


「錦城君を悪く言う訳ではないのだけど、贅沢な食事のツケだねぇ」


 高出が、訝し気な表情で藤原を見詰めていた。一方の辛嶋は、思い当たるフシがあるのか、笑みを漏らしていた。


「胃の内容物の概要は、もうお伝えしてあるので、割愛するよ。とにかくねぇ、腸が汚い。腸壁に毒素が溜まっていてね。あの状態だと、血管を経て、細胞の汚れになるよ。それで血管にプラークができて、脳梗塞を引き起こしたんだろうね」


 プラークとは、脂肪の塊で、別名「血栓」ともいう。血管にプラークができると、血流が悪くなる。この状態が続くと高血圧と診断される。さらにプラークが血管で詰まると、血の流れが止まる。詰まった場所が心臓の血管なら心臓発作。脳の血管なら脳梗塞を起こす。一命を取り留める場合もあるが、死に至るケースも多い。


 言葉を切ると、藤原は実験ノートのページを捲った。


「細かい発生機序は、荒垣君が後で、説明してくれるけど。心原性の脳梗塞の疑いが強いね。心臓の血管に詰まったプラークが脳血管に移動していたようだね」


 藤原が、右手で眼鏡の位置を確かめながら続ける。


「腸の話に戻るけどね。大食漢のツケで宿便も溜まっていてね。あれだけ溜まっていたら、体内で有毒ガスが発生して、脳神経を刺激していただろうね。聞くところによると、錦城君は、怒りっぽい性格だったようだね。一般には本人の性格で片付けられるけど、有毒ガスの影響で脳神経がやられていたとも、考えられるね」


 藤原が眼鏡を外して、実験ノートを凝視し、さらに続けた。


「体型からもお察しできるように、脂肪が多かった。脂肪細胞から分泌される物質にアディポサイトカインがあるでしょう。荒垣君が分析してくれた結果、糖尿病、高血圧、血栓、この三つの原因になる活性物質が三つとも揃っていました。膵臓の分析はこれからですけど。もしかしたら、糖尿病もあったかもね。血中のブドウ糖濃度もかなり高かったから。極めつけは、消化状態が進んでいたけど、大量に砂糖菓子を食べた形跡があったことだよ」


 藤原が言葉を切ると、辛嶋が前のめりの体勢になって、口を挟んだ。


「もし、糖尿病が前もって分かっていて、インスリン注射をちゃんと打っていたら、こういう事態は免れた、とも考えられますよね?」


「錦城君は健康診断を受けていただろう? これだけ体内がドロドロなら、診断結果に上がってくるはずだ」


 辛嶋が首を傾げる。


「医局長が、肉好きで、甘党なのは、知っていました。ですが、なかなか目上の方に、注意できませんからね」


 藤原が鋭い目で辛嶋を見詰める。


「分かっていて、注意しなかったとなれば、君は錦城君を見殺したことになるよ!」


 辛嶋が「ご冗談を」と言いながら、苦笑いしている。


 舞は、そっと優子の表情を盗み見た。左側の眉が、美しく吊り上がっていた。銀幕の映画女優が見せる、狡賢そうな表情に似ている。藤原の視線が、一瞬、優子に移った。視線を実験ノートに戻すと、また藤原の説明が続いた。


「最後にもう一つだけね。時々、癲癇てんかんの発作を起こしていたかもしれないね。その場合、アテローム血栓性脳梗塞となるんだけど。心原性の脳梗塞と似ているからね」


 癲癇の発作は、大脳の神経細胞が過剰に興奮することによって起こる。舞は思わず、口を開いた。


「ランビエの絞輪か……」


 舞の静かな呟きは、その場にいた全員に聞こえていた。藤原の鋭い眼光が舞に注がれる。


「なかなか鋭いお嬢さんだね。何か、思い当たるフシでも?」


 舞は、錦城が亡くなった日の昼休みの光景を思い返した。錦城の研究室から、怒鳴り声を聴いた。だが、この場でまだ話す気には、なれなかった。舞は瞬時に取り繕う。


「大量の砂糖菓子を食べた形跡が、気になりました。血糖値が乱高下しますから、低血糖状態の時に、カテコラミン濃度が高くなりますよね? ランビエの絞輪を伝って、興奮が最高潮に達すると、機嫌が悪くなり、声を荒げる場合もあるでしょう。それを通り越すと、一部の脳の神経細胞が異常な電気活動を起して、癲癇の発作が起きると仮定できます」


 藤原が満足そうに首肯して、舞を見詰める。


「荒垣君、頼もしい助手ができて良かったね。私の気になる点は述べたので、後は若い者に任せるよ」と言うと、藤原が実験ノートを閉じた。


「肩書だけは室長だけど、もう老体だからね」


 藤原の仕草は、言葉とは裏腹に、キビキビしている。高出から受け取った資料と実験ノートを重ね、左脇に抱えて立ち上がった。右手で荒垣の肩を、ポンポンと軽く叩くと、退室した。姿勢が良く、印象に残る後ろ姿だった。


「私からも、詳細説明があるので、五分ほど休憩しましょうか。三時には終わらせますので。優子先生にも質問がありますしね」


 荒垣の優子を見る眼が、挑戦的に見えた。以前、荒垣が、優子とも対で話す時が来るだろう、と話していた。だが、浮浪者殺人事件の件だ。錦城の死因と、何かリンクするのかもしれない。舞は、一旦、席を立ち、廊下に出た。そっと振り返り、優子と荒垣の様子を見た。談笑している様子はない。二人とも、それぞれ自身のノートPCを見ていた。

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