第三章 05 敵対する二人

 舞が室内に戻ると、会議が再開された。荒垣がノートPCを操作すると、プロジェクターに資料が映る。


「藤原先生の説明と、一部、重複しますが。錦城先生は、血管が異常に細いですね。その上、血液中のブドウ糖濃度が高く、プラークも至る所で発見されました。一般に、高血圧が疑われる場合、塩分を控えた食事を推奨されますよね。その辺りは意識していたのか、塩辛い物は控えていたようです。塩分濃度から来る、血管の炎症はありませんでした」


 荒垣が言葉を切ると、続ける。舞は、心が躍るような興味が湧いて来た。


「血圧が高めの人は、塩分さえ控えれば、甘い物は食べても良い、と勝手に解釈する傾向があります。錦城先生は、典型的なこの手のタイプだったと推測できます。ご遺体の体脂肪量から察すると、常日頃から砂糖摂取量が多かったと思われます」


 舞の想像以上に、錦城の食生活は偏っていた。荒垣の話が続く。


「糖類の中でも二糖類のスクロース、すなわち、菓子類に含まれる白糖ですね。体内に入ると、脂肪組織に蓄えられるので、体脂肪が増えます。体脂肪は、宿便から発生された有毒ガスを、そのまま取り込んで体内に蓄積するので、たちが悪い」


 荒垣が、出席者、四人の眼を順番に見ながら続ける。いつも馬鹿にした態度で、人の話を聞く辛嶋も、前のめりで真剣に聴いていた。


「毎日の食生活が祟って、錦城先生の脂肪組織は、大型脂肪組織になっていました。脂肪細胞には、『脂肪毒』と呼ばれる生理活性物質のアディポサイトカインがあります」


 舞は、荒垣の話の要点を、ノートPCに猛烈な勢いでタイプした。


「大型になると、動脈硬化の促進や、糖尿病の誘発原因になる『腫瘍壊死しゅようえし因子』。高血圧を誘発する『アンギオテンシノーゲン』。血栓の原因になる『パイワン』。これら三つの脂肪毒が分泌されるようになります。錦城先生の体内は、脳梗塞を起しやすい状況でした。ここまでで、何か質問は、ありますか?」


 一同が、首を横に振り、次の言葉を待つ。錦城の顔色の悪さの原因が伺い知れた。


「次は、何が原因となって、死に至ったかについてです。事前にお伝えしていましたが、胃の内容物から、大量に砂糖菓子を食べた形跡がありました。恐らく、月曜日の午前中に食べた物だと思います」


 辛嶋が、軽く左手を上げると、荒垣が「どうぞ」と発言を譲る。


「月曜日の八時半に、精神科の角倉君が、錦城先生の研究室まで月次報告に行ったんだ。その時に、好物の《氏鉄饅頭》を五個ぐらい食べていたそうだ。九時頃に研究室を出た時は、上機嫌だったと聞いているよ」


 優子が、嫌味な笑みを浮かべていた。荒垣が、頷きながら、キーボードを操作した。


「きっと、饅頭でしょうね。短時間で大量の高糖度食品を摂取すると、先ほどの宇田川さんの発言にもありましたが、血糖値が乱高下しますね」


 荒垣が、チラリと舞の顔を見て続ける。舞は、月曜日の昼休みに聴いた、錦城の怒鳴り声を思い返した。なるほど、と納得する。


「砂糖摂取後の血糖値曲線は、約三十分後に二百㎎%ぐらいまで上がります。この状態だと、気分がいいので、上機嫌だったのでしょう。その後、約二時間で血糖値が急激に下がり、八十㎎%ぐらいになります。低血糖状態なので、カテコラミンが異常分泌して、機嫌が悪くなったのです」


 荒垣が、疑り深い表情で、高出の顔を見た。


「高出君、十一時ごろ、錦城先生の研究室に在室していたか?」


 急に話を振られた高出が、ビクッと身体を反応させる。


「この時間帯は、おりませんでした。ただ、九時過ぎに錦城先生の研究室に伺った時、冷蔵庫にチョコレートが残っているか、と訊かれ、朝のコーヒーと一緒に出しました」


「量はどれぐらい?」と、荒垣が質問する。


「芦屋医大のアソート・チョコレートの小箱を一箱です。トリュフ・チョコレートなどが十個ぐらい入ったセットです」


「小箱とは言え、一人でチョコレート十個も平らげるのか?」と、荒垣が首を傾げる。


 高出の表情が曇る。


「錦城先生の冷蔵庫には、芦屋医大のアソート・チョコレートの小箱が、常に五~六箱ストックされていました。毎朝のように、召し上がっていましたね」


 辛嶋が苦笑いしながら、高出に向かって口を開く。


「君も医者なのだから、それとなく錦城先生に、甘い物の食べ過ぎだ、と忠告できたよね?」


 高出が、首を何度も振りながら、背筋を伸ばす。


「滅相もない。些細な事柄で、声を荒げるケースもあるので。余計な発言はしないよう、心掛けていました。先ほどの、荒垣先生の血糖値の推移ですが」


 高出が、荒垣の顔を見る。荒垣がプロジェクターに、血糖値曲線の図を反映させた。


「九時半には、錦城先生の研究室を出ましたが、その時はまだ、チョコレートが半分ぐらい残っていました。恐らく十時ごろには食べ終えていたと思います。そうすると、荒垣先生が推測された時間より、一時間から一時間半はズレるので、昼休み辺りに機嫌が悪かったかもしれませんね」


 荒垣が、納得したように頷いている。


「君は十二時から十三時も、錦城先生の研究室には、いなかったんだね?」


「ランチをご一緒するケースは、ありませんでした」と、高出がビクビクしながら答える。


 舞は、思わず、顔を顰めた。


――月曜日の昼休みに、錦城先生の研究室を訪ねていたのは誰だろう?


 荒垣が、辛嶋と優子の顔に視線を移す。


「胃の内容物の消化具合から察すると。錦城先生が月曜日にランチを摂った時間帯は、十三時過ぎから十四時半ぐらいですね」


 辛嶋が、一瞬、バツの悪そうな表情で、自身のノートPCに視線を移した。


 優子は、真っすぐと荒垣の眼を見て、頬を緩めた。


「なんか警察のアリバイ探しみたいね。私に質問って、何かしら?」


 荒垣が、ニヒルな笑みを浮かべた。やはり、荒垣は優子に対して、挑発的だ。荒垣は、優子に対して、舞の知らない何かを知っているようだ。


「優子先生が、錦城先生とお昼をご一緒する機会はありましたか?」


「学会がらみでは、あったけど。少なくとも、この日はご一緒してないわよ」


「錦城先生とお話をされる時は、どうされていましたか?」


「大体、精神科病棟の事務室か診察室かな。一応、上司でもあったので、月次報告で何度か研究室に行ったけど。それが、質問なのかしら?」


「栄養学博士としての優子先生に、お尋ねしたいのですがね」


 荒垣が、好意的な笑みで優子の顔を見詰めながら言う。


「甘い物の食べ過ぎで、数時間後に低血糖状態になりますよね。カテコラミンが異常分泌されていると、予め分かっている人間がいたと仮定します。その時間帯を狙って、怒らせるような事柄を、わざと話したら、どうなりますか?」


 優子の眼が、三白眼になった。妖艶な笑みが浮かんでいる。荒垣の挑戦を受けて立った、と思える態度だ。


「答えは、先ほどの舞さんの発言と、同じだと思うけど。恐らく、短気を起して、声を荒げるでしょうね。下手すると、癲癇の発作も起こしやすかったでしょう。この程度の推察なら、別に栄養学博士の肩書がなくても、分かるでしょう?」


 荒垣が、愉快そうな表情で優子を見詰める。


「ヒトが声を荒げたり、機嫌が悪くなったりする発生機序としては、その通りですね。繰り返しになりますが、意図して低血糖状態の時間帯を見計らって、わざと怒らせたと仮定できないか? 優子先生のご意見が訊きたいのです」


 辛嶋が荒垣と優子の顔を、代わるがわる見ながら、口を開く。


「荒垣君は、もしかして他殺だと思っているのかな?」


「もし事実だとしても、確証は難しいので、完全犯罪になるのでしょうかね?」


 と荒垣が言うと、優子が、静かに声を出して、笑い出した。


「さすが、毎日いろんなご遺体を解剖しているから、発想がユニークよね。錦城先生に恨みを持っている人は、芦屋医大に一杯いるでしょう。糖尿病を専門としている内科医や、栄養士なら、思いつきそうな事実ではあるわね。だけど、錦城先生の健康診断の詳細を熟知している人が、一番怪しいと思うけど」


 優子が、辛嶋と高出の顔を、順番に見る。辛嶋が、両手を上に向けて、肩を竦める。


「先ほど、藤原先生にも、お伝えしましたが、錦城先生の健診結果は知りませんよ。医師として、健康体には程遠い、とは思っていました。優子先生こそ、錦城先生のお姿を見て、いつもどう思っていたのですか?」


 優子が首を傾げる。


「正直なところ、錦城先生のプライベートには興味がなかったですね。酷い言い方ですが、健康であろうが、なかろうが、どうでもいいとね」


 高出が、哀し気な表情で、優子を見詰めている。生前の錦城を嫌っていた小絵でさえ、錦城の死に戸惑いを見せていた。優子には、身近な人の死を憐れむ心は、一切ないように思えた。優子が舞の顔を見る。


「舞さんはどう思うの? 今後の胃の内容物の分析はお任せするから、思っている事実は、遠慮しないで、発言していいのよ」


 舞は、桐花の精神鑑定の途中で、錦城がタイミングよく急逝した事実が気に懸かっていた。だが、この場で浮浪者殺人事件の話を持ち出せない。


「他殺かどうかは、今後の調査で、私なりに考察したいと思います」


 敢えて、お茶を濁した。舞は、優子と辛嶋に向き直って、言った。


「錦城先生は、砂糖の摂り過ぎで、高次脳機能障害を起こしていたと、思っています。心の健康と食生活は、深く関わり合っていますから。脳の機能障害も起こしやすい状態だったと、考えられますし」


 辛嶋が、腕を組みながら、「一理、あるかもなぁ」と、呟く。


「このような機会は少ないから、舞さん、存分に調査しておいてね」


 と言うと、優子が壁時計を見る。荒垣が察したのか、プロジェクターをオフにした。


「今後ですが、定期的に、報告会を開催しましょうか?」


 と荒垣が訊ねると、優子と辛嶋が、怪訝な表情を浮かべた。優子が舞と荒垣を見る。


「メールで報告してくれたらいいよ。資料があれば、添付して。舞さんは、時々、私の研究室に来るから、その時に聴かせてね」


 優子がノートPCを閉じて、立ち上がった。高出も反射的に立ち上がる。優子と辛嶋が退室するのを見届けると、高出が荒垣に敬礼した。小走りで、辛嶋の後ろ姿を追っていく。


 三人の足音が遠ざかると、荒垣が口を開く。


「早速だけど。錦城先生が月曜日にランチを摂ったのは、《御影ホテル》レストランだと思うんだ」


 舞は何度も首肯して、荒垣を見た。


「私も、そう思って、昨日の帰りに寄ってみたのです。給仕したと思われる男性が、明日、ご出勤されるそうですよ」


 舞は、若い男性ウェイターから聴いた話を、荒垣に伝えた。


「明日のランチ、抜けられるか? 《御影ホテル》の坂下さんに話を訊きに行こう」


「お昼時は混むので、十三時半でいかがでしょうか?」


「それまでに、膵臓の分析を済ませておくよ。インスリンが、正常に機能していなかったと、思うけど。どう出るかな?」


 荒垣は、この状況を楽しんでいるようだった。荒垣も錦城の死を憐れんでいる様子は、見られない。舞は思わず、口を開いた。


「錦城先生の死を、可哀想とか、何か思うところはないのですか?」


 荒垣が、面倒そうな表情で舞を見る。


「毎日、人の死と向き合っているんだ。いちいち感情移入していたら、神経が保たないよ」


 荒垣にとっては、錦城の遺体も、仕事の中の一体のようだった。舞は、腑に落ちない気分に陥りながら、退室した。


 廊下を歩きながら、反芻する。荒垣も、錦城の他殺説を考えていた。辛嶋と高出は、錦城の側近のため、何か積もる恨みがあったと仮定できる。優子には、動機はないように感じられた。だが、荒垣の今日の態度は、優子に挑戦的だと感じた。

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