第三章 03 葉紫陽花と女の影

 栄養部のオフィスがある一号館付属棟を出ると、雨が降っていた。秋雨前線の影響で、しばらく雨の日が続く。舞は、運動不足を心配しながら、駅の方角に向かった。


 付属棟と繋がっている一号館の一階に、職員用食堂がある。遠目に、夜勤を控える医療スタッフの食事風景が見えた。舞は、錦城の胃の内容物と合致するメニューを確認するため、食堂の入口に寄った。


 一号館の食堂は、昭和五十年代から営業している。入口には、レトロなガラス棚が設けられ、蝋細工のメニュー見本が並んでいた。ハンバーグや豚の生姜焼きは存在したが、ステーキは見当たらない。マッシュポテトは、様々な料理に添えられている。プリンの見本もあった。


 舞はふと、十号館の総合病棟の最上階にある、《御影ホテル》運営レストランが脳裏に浮かんだ。ステーキは、看板メニューだ。思い直すと、舞は駅と反対方向の十号館へ向った。レストランのラストオーダーは十九時半だ。今なら、まだ間に合う。


 メイン通りは、六限目を終えた学生や、帰宅を急ぐ職員で、人出が多かった。雨の日は、人の動きも遅い。そのため、九号館の裏の細道へ向った。やや遠回りだが、人がいない分、早く移動できる。


 舞が、細道に差し掛かろうとした時、遠目に長身の女性の姿が視野に入った。ゆっくりと、紫陽花の葉を鑑賞しているように見えた。手で紫陽花の葉に触れていた。


 何となくバツの悪い気がして、舞はその女性が見えなくなるまで待った。女性は、細道を出て、立体駐車場の方角へ歩いて行った。一瞬、後ろ姿が街灯に照らされた。髪型はショートカットのように見える。優子の後ろ姿に、似ていなくもない。


――優子先生も、マイカー通勤だったはず。


 職員用駐車場の位置は、立体駐車場から、対角線上にある。優子が歩いている可能性は低い、と思った。


 舞は、急ぎ足で細道に入った。この細道は、車の出入りができるよう、途中で道幅が広くなる。九号館の一階には、解剖実習室があるため、汎用輸送車が五台ほど駐車できるスペースが設けられている。今日は、常在の汎用輸送車、一台だけだった。


――荒垣先生は、在室なのかな?


 荒垣に質問したい事柄が多数あった。だが舞は、そのまま通り過ぎ、十号館の業務用エレベーターに向かった。


 舞は、レストランの執事風の初老紳士の姿を思い返した。何度か、土曜日のランチ時に、給仕を受けた。確か、名札は「坂下」だった。十号館の十階に到着すると、レストランの正面入り口に移動した。


 このレストランにも、蝋細工のメニュー見本が並んでいた。職員用食堂と違い、本物と見紛うほどの精巧さだ。真ん中の目立つ場所に、ステーキ・セットの見本がある。マッシュポテトが添えられ、ライスも付いている。ショーケースの隅に、プリンの見本も確認できた。プリンは、芦屋医大の名物なので、学食や患者用の喫茶室でも見かける。


 舞がメニュー見本に見入っていると、三十代の男性ウェイターが「お一人ですか?」と、声を掛けてきた。舞は、ウェイターの眼を見る。


「お尋ねしたい事柄がありまして。坂下さんは、ご勤務中でしょうか?」


「本日はお休みを頂いております。週に三度の出勤で、月・木・土曜日です」


 舞は、大きく頷くと、「月曜日はご出勤されていたのですね?」と、言った。


 ウェイターが、笑顔を浮かべる。


「坂下へのご用件がございましたら、お伝えしておきますが」


「いえ、木曜日に出直します」


「坂下は、夕方四時までの勤務になります。朝は、十時には出勤していると思いますが」


「本店のホテルの方なのですか?」


「今は、嘱託勤務です。元々、御影ホテルの副支配人でした。定年後、このレストランに。何でも、芦屋医大の理事長さんに、頼まれたそうです。大学時代の先輩に当たるようです」


 舞は、また大きく頷き、「道理で。ダンディな方だと思っていました」と、言った。


 ウェイターが、嬉しそうに頷く。


「私も将来、ああいう紳士になりたいものですね。いや、余計なお話をしてしまいました。土曜日によく、お見えですよね。ハンバーグがお好きだと、記憶しています」


「子供のころ、祖父母に連れられて、時々、御影ホテルの本店レストランに行ったのです。ハンバーグの味が格別で」


 舞は懐かしむように微笑むと、ウェイターに頭を下げた。顔を上げると、ウェイターが舞の眼を見る。


「失礼ですが、仁川先生のお嬢様ですよね?」


 舞は、何故か嬉しいような驚きを覚えた。


「いえ、私はこの病院に勤務している管理栄養士です。仁川先生と、お仕事をご一緒しているのです。大学院では、指導も受けていますし」


 今度は、ウェイターが大きく頷いた。


「雰囲気が似ておられるので、てっきりお嬢様だと思っておりました。失礼いたしました」


「仁川先生に、お嬢様がいらっしゃると、何処かでお聞きになったのですか?」


 と、舞は思わず訊き返した。優子に娘がいる、という仮説が瞬時に思い浮かんだ。


「いえ、ただの私の憶測ですよ。今はこのレストランに配属されていますが、ホテルマンをしていますと、色んなご家族と出逢いますので。勘のようなものです。仁川先生の眼差しが、愛娘を見るような、愛情に満ちた感じに見えましてね。まぁ私の見解は、当てになりませんが」と言うと、ウェイターは、気まずさを隠すような笑顔を浮かべた。


「仁川先生は、憧れの女性でもあるので、母娘に間違えられるなんて、嬉しいですわ」


 舞は満面の笑みをウェイターに向けると、その場を辞した。


 エレベーターで一階まで降りると、キャンパス内のメイン通りを進んだ。人は少なくなっていた。駅に向かいながら、反芻する。確かに優子は、舞に対して、少し甘いと感じる場面があった。時々、同僚に、「最近、優子先生に似て来たね」と指摘された事実はあった。舞の仕事の進め方や、ものの考え方は、優子を手本としている部分がある。そのため、尤もな指摘だと感じていた。


 仕事と関りのない、第三者から見ると、母娘と見えるほど似ているのか? 機会があれば、荒垣や角倉に訊ねてみたいと思った。


 舞はふと、先日、角倉が言いかけた、優子の亡き夫の存在を思い返した。風の噂で、優子には子供はいないと聴いている。事実、優子から、子供の話を聴いた覚えもなかった。


 いくら秘密主義でも、実際に子供がいたら、何かの節に話題に出る。現に、小絵の場合、息子の大学受験についての愚痴が出ている。今の時代、シングル・マザーは多い。優子が事実を隠しているようには、見えなかった。


 阪急電鉄の芦屋川駅が視野に入って来た。芦屋川の川沿いの道に、高級洋菓子店や和菓子店が軒を連ねる。土地柄、オシャレなカフェやレストランも数軒あった。


 その中に、《氏鉄饅頭》の支店もある。二十時閉店なので、まだ店は開いている。舞は、ゆっくりと店舗の前を通り過ぎた。祖父も大好物だった銘菓。だが、甘党だった祖父は、晩年、認知症で祖母を悩ませた。今の舞には、錦城の死を早めたかもしれない、「魔の饅頭」に思えた。

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