第三章 02 ブレイン・バンク

 定時を知らせる、十七時のチャイムが鳴った。舞は、栄養部の自席で、データの整理をしていた。舞のパソコン画面に、小絵からのチャット・メッセージが表示された。残業要請だった。舞は、チラリと小絵の席を見る。目が合うと、小絵は神妙な顔つきで、小さく首肯した。重要な話があると、推測できる。


 二十分ほど経過すると、他の管理栄養士が帰宅した。オフィス内は、舞と小絵の二人になった。舞は、小絵のデスクに歩み寄った。小絵が舞の顔を見て、哀し気に微笑んだ。


「錦城先生の御遺体ね。昨日の夕方に、解剖されたのよ。迅速解剖で、数時間以内に脳を取り出して、凍結する必要があったからね」


「ブレイン・バンクですか?」と、舞は訊ねた。


「献体と献脳の両方を登録できないから、錦城先生はブレイン・バンクにしたのね」


「それで、すぐに解剖できたのですね。献脳がメインでも、死因を調べるために、他の臓器も解剖できますからね」


 ブレイン・バンクとは、死後、献脳するシステムだ。献体は、医学部を設置している大学の《白菊会》と呼ばれる組織で登録できる。どちらも、医学教育の発展に遺体を提供するものだが、同時に登録できない。献体は、死後、遺族の承諾を得てから冷凍保存される。一般に、遺体の解剖後、遺族の元に戻されるのは、二年ほど掛かる。


 一方、ブレイン・バンクの場合、遺族の承諾が取れ次第、すぐに解剖できる。ブレイン・バンクの主な目的は、脳細胞の研究である。脳細胞から、神経細胞や遺伝情報が観察できる。だが、脳細胞は、死後一時間を経過すると急速に減少する。そのため、死後、数時間以内の脳を迅速に取り出して凍結する必要がある。こうした解剖システムを、「迅速解剖」という。


 小絵がミネラル・ウォーターを飲みながら、続ける。


「錦城先生の奥様が、すぐに解剖を承諾したようね。どんな女性か知らないけど、気丈な方なのでしょうね。急に夫の死を知らされて、迅速解剖してもいいか? と訊かれても、なかなか即答できないわよね」


「時々、家で何らかの発作を起こしていたかもしれませんね。死因はやはり、脳梗塞で間違いなかったのでしょうか?」


「CTスキャン画像で、脳内の右前頭葉に低信号域と高信号域が確認できたそうよ。心原性の脳梗塞ね」


「心原性なら、高血圧とか脂質異常症の影響で、心臓にできた血栓が、脳へ移動した可能性が高いですね」


「恐らくね。ブレイン・バンクでの解剖だけど、内臓の状態も調べる必要があるから、胃の内容物も確認できたそうよ。錦城先生は、かなりの大食漢だったようね。胃に二㍑近い残留物があったのよ。死ぬ直前に食べていたと推測できる食品は、チョコレート、コーヒー。ランチは消化状態が進んでいるけど、恐らく、パン、ステーキ、ポテト、プリン。薬物は市販の頭痛薬が検出できたみたい。後ね、大量の砂糖菓子を食べた形跡もあったの」


 砂糖菓子は、亡くなった日の午前中に食べていた氏鉄饅頭の残留物だと想定できる。


「聞いただけで、胸やけしそうな食事内容ですね。そんな状況だと、消化管ホルモンも働きませんよね」


 小絵が何度も首肯している。


「これからが本題なのだけど。胃の内容物の分析を、管理栄養士さんに手伝ってもらえないか? と辛嶋先生から要請があったのよ」


「解剖調査に管理栄養士が関わるなんて、初耳ですね」


「ここは研究機関だから、いいのよ。優子先生が舞さんを推薦したみたいよ」


「優子先生は、入らないのですか?」


「大学院の研究ではなく、職務としての要請だから、日本の管理栄養士資格を持っている人にお願いしたいそうよ」


 小絵が首を傾げながら、続ける。


「辛嶋先生のお話だと、優子先生は、あまり関わりたくないみたいね。錦城先生の脳細胞に関してもね」


 舞は腑に落ちない感覚に陥った。だが、新しい取り組みに意欲が湧いた。錦城の死のタイミングを知れる、チャンスだとも思った。


 小絵の顔を見ると、皮肉たっぷりといった表情に変わっている。


「辛嶋先生は、医局長代理として、張り切っているわね。私が芦屋医大に就職したころは、まだ医学生だったのに。立派になられたものよ」


 小絵は辛嶋と歳が近い。だが、学生時代から野心が強く、要領のいい辛嶋を、快くは思っていなかった。


「辛嶋先生と、お仕事をご一緒するとは、予想しませんでした」と、舞は顔を顰めた。


 小絵が、人差し指を左右に振りながら、「きっと会議だけ出て、口を出すだけよ」と、言った。舞も納得したように頷いた。


「ところで、錦城先生の解剖は、どの先生がされたのですか?」


「医局長の解剖だからね。メインは、法医学教室の室長よ。藤原慎介しんすけ先生」


 舞は、眼を大きく開いた。


「あの先生、現役で解剖できるのですね? 確か、七十代で名誉教授だと聴きましたが」


「現場責任者だけど、実際の細々した解剖は、荒垣先生とか助手がやっているでしょう」


「胃の内容物の分析を言い出したのは、藤原先生ですか?」


「そこまでは、辛嶋先生から聞かなかったわ」


「きっと、荒垣先生でしょうね」


「舞さん、大学院で荒垣先生の授業を受けているから、ちょうど良かったわね」


 小絵は、舞と荒垣が、浮浪者殺人事件の件で、会っている事実を知らない。舞は、愛想笑いを浮かべる。


「冷徹そうに見えるけど、難しい話を噛み砕いて説明してくれるのですよ」


「私は、接点がないから、意外だわ。まぁ、詳細は明日以降になると思うけど、スケジュールを調整して、取り組んでくれるわよね? 私は、さすがに解剖後の胃の内容物の分析なんて、気持ちが悪くて無理よ。でも、決して、舞さんに押し付けた訳じゃないのよ。大学院の勉強にも役立つと思ったし、適任だと思ったから」


 小絵が、申し訳なさそうな表情で舞を見る。


 舞は笑顔を浮かべ、「お受けする方向で、お話を進めてください」と、言った。


 小絵は、ホッとしたように表情が明るくなった。


 他殺だと考えられる事実は、ないものか? 舞は、錦城の胃の内容物の詳細を反芻した。

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