第三章 14 女刑事の話し
舞がカフェ・ブリックの店内に入ると、遠目に喜多川の後ろ姿が確認できた。喜多川は、壁際の席に座っていた。武道の嗜みがあるのか、姿勢が良い。
カウンターにいるマスターに「アイス・コーヒー」と告げると、舞は奥に進んだ。
舞が近付くと、喜多川は伏せていた目を、静かに開けた。何かを真剣に考察していたと見える。
「お呼び立てして、申し訳ないです。宇田川さんの推論を、また訊きたくなりましてね」
舞が着席すると、マスターがアイス・コーヒーを運んで来た。
喜多川が、遠目の窓際席に視線を移す。用心しているような、目付きだった。中年の主婦の二人連れが、近所の噂話に花を咲かせている。話の内容が、丸聴こえだ。他には、老夫婦が一組と、スポーツ新聞を熱心に読む、中年の男性がいた。いずれも、窓際に近い、店内の明るい場所に座っている。喜多川が、ニンマリとした笑みを浮かべる。
「ヒソヒソ話をするには、良い環境ですね」
喜多川は、薄暗く、観葉植物の陰になる、奥の壁際席を、わざと選んでいた。喜多川が先に口を開く。
「その後、捜査のプラスになりそうな出来事は、ありましたか? 些細な事柄でも構いませんので」
舞は頷くと、小声で話し始めた。
「錦城先生の息子さんが、甲神学園のご出身でした。今年で二十六歳になるはずです」
被疑者の年齢には、触れなかった。察しの良い喜多川なら、被疑者と錦城の息子の関連を調べるだろう。喜多川は、表情を変えずに、頷いている。
「以前、芦屋医大の精神科には、二大派閥があると、仰っていましたね。仁川派の先生方のお名前を教えて頂けますか? 看護師や薬剤師、臨床心理士なども含めてです」
舞は、メンバーの顔を思い返し、喜多川に伝える。小振りの方眼ノートに、喜多川が組織図を描き始めた。
「仁川教授と接触が多いのは、角倉先生ですよね」
「角倉先生には、第一発見者である事実や、被疑者のお話はしていません。それとなく、甲神学園の噂話を聞き出しましたが」
「他には?」
「解剖医の荒垣先生の小学生時代のお話を聞きました。後は、仁川教授の旦那様が、阪神淡路大震災で犠牲になられた過去ですね。まだ、詳細はお聞きしてませんが」
喜多川にとって、ヒントになったのか、瞳孔が大きくなった。喜多川は腕を組んで、ノートの組織図を眺めている。舞の手前、それ以上は何も書き加えなかった。喜多川の視線から、優子と角倉の名前を凝視しているように見える。
「仁川教授について、他に噂話とか、お聞きしていませんか?」
舞は、先ほどの優子の後ろ姿と、小絵との会話を反芻した。
「実は、仁川教授が芦屋市内のどこに住んでいるのか、知りません。大抵、仕事中の会話で、出てきますが。今まで、気に留めた覚えもなかったのです」
興味深そうに、喜多川が舞の眼を見詰める。
「急に気になり出した、キッカケは何ですか?」
「先ほどの学内葬の後、仁川教授と構内の途中まで、ご一緒しました。てっきり職員用駐車場へ向うと思っていましたが、立体駐車場に向かったのです」
「逆方向ですものねぇ。それは珍しい行為になるのですか?」
喜多川は、芦屋医大の見取り図が頭に入っているようだ。
「立体駐車場は、診察料金や薬代の領収書を見せれば、四時間まで無料です。ですが、患者以外の者が利用すると、一時間五百円です。七時間勤務で計算すると、一日の駐車料金は三千五百円。場所にもよりますが、タクシー通勤するよりも、高額になります」
喜多川が、何かを閃いたようだ。切れ長の目が輝いている。
「芦屋医大のタクシー乗り場は、総合病棟の一階の車寄せでしたよね。初めて見た時は、ホテル並みに綺麗で感心しましたわ」
舞は、再び床を見詰めた。総合病棟の車寄せの様子を反芻する。総合病棟の東向かいは、救急病棟になる。救急病棟の南隣が立体駐車場だ。
喜多川が興味深い表情で舞の顔を覗き込み、「何か、思い出しましたか?」と言った。
舞は、九号館の路地裏を進む優子を思い返した。
「錦城先生が亡くなった翌日ですが。仁川教授と似た女性が、九号館の裏路地を通って行きました。夕暮れ時でした。仁川教授は、先ほども、その道を通って、立体駐車場へ行かれました」
「今週の火曜日の夕方の様子を、詳しく教えていただけます?」喜多川の質問が続く。
「顔は見えなかったので、仁川教授だと断言はできません。その女性が、立ち止まって、葉紫陽花を眺めていました。遠目ですが、葉に触れているように見えました。葉紫陽花は、季節外れでも風情がありますが、立ち止まって眺めるほど、美しいものでしょうか?」
喜多川が、思案顔になる。
「確かに。気になる行動ですね。捜査の進展になりそうなヒントを、ありがとうございました。こちらの動きを、お伝えできないのが、残念ですが。他に推論とか、ありますか?」
喜多川に、立ち入った質問ができない事実は、承知している。舞は首を横に振った。
「最後に確認ですが」と喜多川が、前のめりで、舞に顔を近付ける。
「捜査が進むうちに、宇田川さんにとって、大切な人を失くす結果になるかもしれません」
「誰かがまた、亡くなるのですか?」と舞は、顔を顰めて、喜多川を見詰める。
喜多川が、首を横に振り、さらに声を落とす。真剣な眼差しだ。
「命を落とすかどうかまでは、分かりません。ですが、宇田川さんの傍から、いなくなる可能性が高いです」
「家族とか、同僚ですか?」と、舞は訊き返す。
「詳細は、お話できませんが。少なくとも、ご家族ではありません。今の私の行動を、上の者は知りません。言い換えると、捜査命令が出てないので、知らん振りもできるのです。警察官として、事実を追及したい。ですが、宇田川さんを始め、傷つく人も出てきます」
舞は、事の重大さが測りかねた。窓際に視線を移すと、騒がしかった主婦たちが、帰り支度を始めている。店内は、間もなく静かになる。今のうちに、重大事項を話し終えなければいけない。
「私が尊敬する人の中に、犯人がいたとしても、罪は償わなければいけないと思います」
「では、進めますね」と喜多川が、深く頷き、立ち上がった。
舞は、その場に残った。リュックから愛用のノートを取り出した。記憶が新しいうちに、今日の出来事を書き留める。
――家族以外で、大切に思っている人物は?
自分の心に問いかける。
カフェ《ブリック》にいるせいか、荒垣の顔が思い浮かんだ。
「ありえないなぁ」と呟くと、指導員の優子の後ろ姿を思い返した。優子と紫陽花、何か因縁があるのだろうか?舞は、紫陽花の葉の絵をノートに描いた。
――青シソの形に似ている……。
ただの落書きだが、何故か、目に焼き付いた。
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