第二章 19 黒いタクシーのナゾ

 月曜日になった。十月に入ったが、蒸し暑い朝だった。天気予報によると、秋雨前線が近づいているらしい。明日からは、しばらく雨が続く。サイクリング日和は、今日までだ。


 今朝は、七時半にカフェ《ブリック》で、荒垣と待ち合わせをしている。舞が、芦屋川沿いに差し掛かると、土手には白やピンクのコスモスが揺れていた。舞は、マウンテン・バイクを漕ぎながら、荒垣に伝える内容を反芻していた。


 阪急芦屋川駅の高架を潜り抜けると、タクシー乗り場になっていた。まだ七時過ぎだが、通勤のためか、既に数人が並んでいる。改めて見ると、タクシーにも様々な色がある。大手タクシー会社の黄色の車種が多い。電鉄会社が運営する黒いタクシーや水色のタクシーもある。黒いタクシーは、他の会社よりも運賃がやや高く、台数も少ない。阪急沿線の主要駅のタクシー乗り場か、電話予約しか受け付けていない。


 舞は、子供のころから、阪急沿線に住んでいたため、タクシーと言えば、「黒」が象徴的だった。だが、タクシーに乗る際、どのタクシー会社か、さほど意識した覚えはない。


 土曜日に見かけたタクシーは、黒かった。殺人事件の翌朝に通り過ぎたタクシーの色は? 舞が、無意識に「タクシー」と認識している色は、黒である可能性が高い。


 重要な事柄ではないかもしれない。だが、舞は正確に知る必要があると感じた。西宮県警の喜多川に会いたいと思った。菫から聴いた話の内容も、伝えてみたい。喜多川は、どのように反応するだろうか? 今から会う、荒垣からの情報も役に立つかもしれない。


 カフェ《ブリック》の店内に入ると、今朝の荒垣は、文庫本を読んでいた。使い込んだ鞣し革のブック・カバーが、掛けられている。窓からは、向かいの家に住む老夫婦が、水色のタクシーに乗り込んでいる。ありふれた光景だ。舞の様子を見て、荒垣が口を開く。


「あの人たち、君の知り合いなの?」


「いえ、タクシーが気になりましてね。この辺りは、阪神沿線に近いから、水色のタクシーなんだなぁと思って。そういえば、荒垣先生はよくタクシーを利用されますか?」


 荒垣が、閉じた本を窓際に置きながら、訝しげに舞を見る。


「ほとんど乗らないね。タクシーから、何かヒントでも得たのか?」


「気のせいだと、思いますが。私が偵察に行くと、タクシーがスーッと通り過ぎて行くのです。『誰かに見られている』ような感覚、と言いますか……」


「何回もあったのか?」


「二回だけですけどね」


 荒垣が腕を組み、「君の行動を知っている奴は、いるのか?」と、思案顔になった。


「少なくとも、土曜日の行動は、誰にも話していません」


「休日も、院内スマホを持ち歩いているよね? GPS機能が付いているから、専門家なら君の居場所を突き止めるのは、簡単だろうね」


「私を尾行して、得する人がいるとは思えませんが」


「プライベートに立ち入るつもりは、ないけど。場所を聞いてもいいかな?」

 と荒垣が、遠慮がちに訊いて来た。


「一回目は、早朝の事件現場です。二回目は、県道の《夫婦岩》の車寄せです」


 荒垣は、「目的地は、サナトリウム病院か?」と言うと、顔を顰めた。


「通りかかっただけで、中には入っていません。神山町を見たかったのです。指導教員とランチをご一緒した時に、神山町方面を凝視していたので」


 舞は、さらに声を落とした。土曜日の偵察の様子と、菫から聴いた話を、掻い摘んで荒垣に伝えた。荒垣は、口を挟まずに、舞の話を聞いていた。


「なるほどね」と頷きながら、舞の眼を見た。

「なかなかの推論だね。話にあった甲神学園だけどなぁ。角倉の出身高校だ」


 荒垣が、腕時計をチラリと見て、続ける。


「例の極秘データの在処も、ビンゴだ。ただ、被疑者の名前は、見当たらなかったんだ。君が教えてくれた薬剤師の名前は、あったけどね」


 舞は、なかなか解けない謎に、見落としがないか反芻した。


「その薬剤師の極秘データを探せば、見つかりますよね?」


 荒垣が、「錦城派の奴らだけで、いいのか?」と、聞き取りにくいほど小声で囁く。


「もちろんです。彼らのリストを虱潰しに探せば、きっと」


 舞が言い終わらないうちに、「どうかな?」と、荒垣が口を挟んだ。荒垣は、ニヒルな笑みを浮かべている。


「あまり深入りしないほうが、いいんじゃない?」


「急に何ですか?」と舞は、思わず荒垣を睨みつけた。


「仮に君を尾行している奴がいるとしたら。理由は『知り過ぎ』だろうねぇ」


 荒垣の視線が冷たかった。舞は、ハッとして呟いた。


「医局長に会いに行ったのが……?」


 荒垣の表情が和らいでいた。


「まだ、暗示に掛かっているようだね」


 荒垣は、残念そうな笑みを浮かべながら、席を立った。荒垣と、考え方の食い違いがあるようだ。舞の推論の何かに、見落としがあるのか?


 舞が出口に向かうと、「忘れ物です」とマスターに声を掛けられた。キャメル色に変色した鞣革のブック・カバーを手渡された。荒垣の忘れ物だ。


 マウンテン・バイクに跨る前に、本をリュックに入れる。タイトルが垣間見えた。アメリカのミステリー小説『蝶のいた庭』だ。確か、ある金持ちが、若い美女の誘拐を繰り返し、二十二歳になると剝製にしてコレクションする物語だ。自分の行く末を知りながらも、若い美女たちは、殺人鬼を崇拝していた。美的センスと冷酷さを併せ持つ、殺人鬼だった。


 舞は、マウンテン・バイクで勤務先に向かいながら考える。先ほど荒垣が見せた、冷たい視線を思い返した。小説の中の殺人鬼と、遺体を解剖する荒垣の姿が重なる。


――GPSの存在。極秘データの在処。土曜日に目の前を通り過ぎた、タクシー……。


 だが、荒垣が尾行者と仮定した場合、理由が見当たらなかった。錦城も違うとなると?


 荒垣が残した、最後の言葉が気に懸かった。

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