第六

 皇太子妃宮への入宮及び婚礼の翌朝。

 目を覚ました皓月はゆっくりと身を起こした。そして枕元に手を伸ばす。だが、目当てのものはない。――愛刀は、国に――皦玲の元に置いてきたのだった。


 名の知れた名刀で、かつては母皇に仕えたある将軍が使っていたという。

 その人物は十数年前に怪我を理由に退官し、国を去った。その際、数多の敵を屠ったその刀を母皇に献上した。その刀はしばらく皇宮で保管されていたが、五年前に反旗を翻した属国の一つを皓月が下した時、その褒美として賜った。今では颱の皇太子の佩刀として有名なそれを、浩に持ってくることは叶わなかった。

 

 立ち上がり、軽く伸びをする。

 日にさらされて、昨日皓月が払い落とした紅い花が目に留まる。

 打ち捨てられた様が見るに忍びず、思わず拾い上げてしまった。昨日は気付かなかったが、星のような形をした可憐な花だった。

 やはり、颱では見たことのない花だ。


「皇太子妃殿下、お目覚めでしょうか」

「ええ。起きているわ」


 怜悧な目元が印象的なその女官は雨霄うしょうと名乗っていた。

 後に入ってきた二人は昨日見かけなかったが、それぞれ露珠ろしゅ沾華てんかと名乗った。


 木気をつかさどる青龍を守護にいただく浩国では、国名の“浩”や皇族の姓である“水”にも見られるように、樹木を育む水や雨に関わる名が好まれるとは聞いていたが本当らしい。

 雨霄と露珠が女官で、沾華が二人よりはやや身分の低い、宮女ということだ。

 皆飾り気もなく、似たような格好をしている為、見た目には誰が女官で、誰が宮女なのか、良く分からなかったが。

 敢えて言うなら服の色くらいか。


「ご体調はいかがでしょうか」

「問題無いわ」

「本日はこれより皇上のもとに挨拶に参られませ。これにて定められた儀礼の一切が終了いたします」


 とすると、またあのやたらと重々しい衣裳を着なければならないということだ。


「――わたくしが国元から連れてきた者達はどうしていますか」

「現在宮官で浩の皇宮にお仕えする上での諸事についてお伝えしているところです。その後、皇太子妃殿下付きの宮女として承認、任命されましたら御前に再び戻る事になります」

「その承認は誰が?」

「後宮でしたら管理をなさっている周貴妃様ですが、東宮につきましては独立した権限が認められておりますので、皇太子殿下がなさいます」


 皓月は表情を変えずに頷いた。

 本来、内政は妃の管轄である。独立した権限があるということならば、皇太子妃である皓月が掌るべきところであろう。

 それを、皇太子はどこまで認めるつもりだろうか?


「慣れぬ者達で御不便もあろうかと存じますが、皇太子殿下より誠心誠意お仕えするようにとお言葉を賜っております故、何なりとおっしゃってくださいますよう」


 ここで皇太子の言葉が出てきたのに、皓月は意外を覚えた。

 そういう気遣いが出来るのなら、せめて婚礼ぐらい出てほしいものである。

 が、そこはまあお引きこもり様である。いずれ、どうにかこうにか引きずり出してやる。などと思いながら、あくまで表面上は柔らかく微笑む。


「急な輿入れでわたくしもまだ浩の礼法には不足なところも多いでしょう。頼りにしていますよ。雨霄、露珠、沾華」


 一人ひとりの名を呼んで言うと、先程より幾分熱のこもった声音で返された。

 彼女達は、物凄い勢いで皓月を飾り立てた。

 仕上げに、と皓月が手にしていたのと同じ紅い花を髪に挿した。

 昨日は気付かなかったが、牀の傍の花瓶に同じものが生けられていた。


「これに何か意味が?」


 髪に生花を飾るなど、正直皓月の柄では無い。戸惑いながら尋ねると、雨霄がにこやかに微笑んだ。


「新床における浩の風習です。悪い意味があるものではございませんので」


 そんなものが?と思ったが、そう言われてしまえば断る事は出来ない。


 「お美しゅうございます」「まさに天賜星娥ですわ」という声に見送られて、皓月は皇太子妃宮を出発した。

 

   * * *


「風皇太子妃殿下のお成りでございます」


 殿内は居並ぶ官達が議論を交わす声でざわついていた。が、その声が響くと、途端に場がしんと静まり返る。艶やかな香りが漂い、その人の来訪を告げた。


 彼女の歩みに従い、甘い香りがさらりと触れては軽やかに過ぎ去っていく。

 

 さながら風のように。

 

 儀礼中は空間浄化の為、大量の香が焚かれていた。故に、香りの違いに疎い浩人は気がつかなかった。

 

 その人自身から発せられる、香気の高さに。

 

 白い肌は真珠のように柔らかな光を放ち、伏せられた瞳は光の加減によって幾重にも色を変えた。颱の皇族特有の目の彩も、雪白の髪も、浩人の目に新鮮に、そして神秘的に映った。これまで国交の断絶していた両国である。話に聞いてはいても、実際にその姿を直に見たことのある者は、多くない。


 真新しい藍の衣に銀の刺繍の華やかな衣を纏い、薄紫色の披帛肩掛けを羽織る姿は天空に遊ぶ仙子せんにょ彷彿おもわせた。

 浩の聖色である青が、存外この異国の皇女の瞳や髪の色に映えるものだと。

 そう思った者は、少なくはなかった。

 その髪に紅色の可憐な花が挿されているのを見て、息を呑む音が幾つも零れる。


 あれは、と。ささやきのような声で密やかに交わされる。


「皇帝陛下に拝謁致します」


 発された声に、誰のものとも知れぬ、息を呑む音が再度零れた。


   * * *


 皇宮の正殿へと足を踏み入れた皓月は、気を引き締めた。対して、表情は和らげる。昨日は花勝ヴェールを身に着けていたから、皓月が浩の人々の前に顔をさらすのは初めてである。つまり、ここからはもうごまかしは利かない。


(――違います。首の角度はこう、こうでございます。歩幅はこれくらいで、)


 国から連れてきた元皦玲きょうれい付きの侍官・荷香かこうの声が耳に蘇って、内心苦笑する。


 皓月と皦玲は、面差しは互いに似ていた。

 二人とも、母皇に似たのである。

 幼い頃はそうでもなかった気がするが。

 ただ、性格の違いから来る雰囲気や人に与える印象は正反対だった。


 柳のようにほっそりとして嫋やかな皦玲は、内向的な性格もあって、いかにも清楚で可憐な深窓の姫君という風情だ。


 それに対し、皇太子として育てられた皓月は、幼い頃から武藝で鍛えて引き締まった手足は、嫋やかさとは無縁だった。刀を揮ってきたためか、皦玲とは手首の太さからして違う。女人としては長身の部類に入る身長、鋭すぎる金緑の瞳は、何も知らない者の前で黙っていると威圧か挑発として受け取られる。特に長じてからは女らしい体型を敢えて強調するかのような衣裳を周囲が好んで着せてきたのもある。

 皓月は機能性重視で簡素な衣服を好んだが、皓月の周りに仕える者たちは派手好みが多かった。


 それ以外では忠実な臣下達ではあるが、ことこれに関して、彼女達は全く引かなかった。確かに皓月の雰囲気には似合っている、というか引き立てているのは確かだった。だが、こういった自分の風貌や服装などが相まって、悪意を持った人間が皓月を見た時に、どのような印象を持つか、皓月は理解していた。


 すなわち、好戦的で淫奔な惑女あくじょ、である。


 だが今、こうして皦玲らしい髪型にして控えめに化粧を施し、優美な浩の衣裳に身を包めば、驚く程に印象が変わるものだと思う。

 

 目下、ここでの自身の立ち位置を固めることが先決だ。必要以上に警戒されてもいけないが、侮られ過ぎてもいけない。


 未だによくわからない今回の同盟の、両帝の真意を探る必要もあろう。

 それで今後の皓月のここでの動き方も決まってくる。


 昨日の宴で感じたのは、女一人、孤立無援の異国の宮廷で何ができよう、という侮りであった。

 

 上も下も、両国の皇帝以外、誰も納得していない婚姻である。よくもここまで漕ぎ着けたものだ。


(――まあ、わたくしも反対した口だが)


 一体、何が目的か。気になることは様々あるが――されど今は。


 是非とも、――魅せてやらねば。


 浩の礼法通りに稽首を行い、金緑の瞳を淑やかに伏せる。

 その奧に、猛々しい魂を潜ませて。

 今この瞬間、私は“天賜星娥”――「風皦玲」だ。


「――皇帝陛下に拝謁いたします」


 声を発すれば、ピクリと人々が反応するのを感じる。

 稽首は、天子に対する最も鄭重な礼である。浩の皇帝に、颱の皇族が稽首を行う。それは、歴史的に、初めてのことであった。

 もし、皓月が、皇太子としてここに来たのであれば、最も重くしたとしても、拝礼で済ませたであろう。が、皓月は、皇太子妃として来た。浩帝に、義父として礼を尽くしたとすれば、意味合いはぐっと薄まる。楽に、と皇帝の声がして顔を上げる。


 この瞬間が勝負だ。


 夜空に輝く星々のように麗しく、たおやかで儚げな深窓の姫君。人が抱く彼女の印象とはそういうものだ。


 仮令たとえ、その優美な衣の下に、白磁の如き皮膚の下に、嵐のような気性を隠していたとしても。今は、浩の皇帝はじめ百官の目を欺き、皦玲になりきらねばならない。


 その一方で、品格を損なってもいけない。

 

 小人の悪意も、侮りも容れぬ。薫風くんぷうの如き柔らかさと、金剛の如き光輝を見る者に抱かせねばならぬ。

 

 それを醸し出すのは、挙措の閑雅さ、目の煌めき、そして、声。湖面の如き落ち着きと、鐘を突いた後の余韻の如き響き、そして透明感。


 方々から感嘆の溜息が漏れる。


 その姿は、一陣の柔らかな風がすっと吹き抜けたかのような感覚を人々に与えた。鮮やかな光を放つ金緑の目に、その横顔に、人々の目が吸い寄せられる。


 場の空気は、その瞬間、皓月のものだった。

 

 だが、ただ一人、全てにいてしまったかのような表情の皇帝からは、皓月に対する、いかなる負の感情も、まして正の感情も見いだせない。


 若い頃、かなりの武闘派だったという浩帝は、かつては辺を開く意も旺盛で、相当母皇とやり合ったと聞いている。武将の如き体躯も姿勢にも老いの影など微塵も漂わせてはいない。


 それとは対照的に、圧倒的に目に力がない。何かを通り越してしまったような目だった。


「皇太子妃に、龍光金釵を下賜する。浩に嫁いだ以上は、この国の皇太子妃として、婦の四行を修め、夫たる皇太子に仕え、浩国の為に尽くすよう」


(皇太子に仕えるも何も、会えないのではどうしようもないが)


 そんな言葉が脳裏に浮かんだものの、無論表情にはおくびにも出さない。


しかと心得ましてございます」


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