第二十七

 皇宮には皇族と、特別に許された者しか入ることの出来ない特別の苑があるという。先日の品茗会で、それを皓月に教えてくれたのはだれだったか。その日の巫澂の講義が終わり、ふらりと池の周りをそぞろ歩いていた時だった。ふと思い出した皓月は、行ってみることにした。


 教えられた通りの場所に行くと、厳めしい顔をした男が二人、一瞬皓月を睨むような目で見てきたが、何も言わずにすんなり通してくれた。その横を通り過ぎるとき、敵意のような、含むところありげな視線を男達が交わしているのを感じる。皇帝から下賜された、金の龍のかんざしを挿していたからかもしれない。


 五本の爪の龍というのは、皇帝と皇太子にだけ許された意匠だ。両者の違いは、角の数で表現される。皇帝は二角、皇太子は一角と。故に、皓月の釵の龍は一角である。

 

 歩を進めて周囲を軽く見回す。確かに見事である。颱では見たことの無いような草花も多い。花を鳥から守るため、枝々に張り巡らされた護花鈴ごかれいが、風に揺られて涼やかな音色を幾重にも響かせている。それに耳を傾けながら進んでいくと、随分奥まった所まで来てしまっていたことに気付く。


 何の気も無しに辺りを見回した時、生け垣の奥に人の気配がした。誰だろう、と思ってチラリと視線を遣ってから、赤面してばっと後ずさった。


 こんな奥まった所で、人目を忍んでいるのだから、少し考えれば分かることを――!!


盈忈えいじん様」


 甘ったるい色香を含んだ嬌声が聞こえて、狼狽えた皓月の口を、後ろから誰かが塞いだ。


「――貴女が見るようなものではありませんよ、皇太子妃殿下」


 そう、耳元に囁いた声。その瞬間、ぞわりと鳥肌が立ったのがわかった。

 驚いた皓月は、反射的に己の肘を、相手の鳩尾にめり込ませた。ぐはっという声がして、拘束が緩む。


(これは、……事故だ)


 お淑やかな天賜星娥てんしせいが皦玲きょうれい皇女は暴力なんて振るわない。びっくりしてたまたまぶつかっただけである。


 俄に、奥で慌てる気配がした。

 思わず攻撃を食らわせてしまったが、あちらの事を失念していた。と、腕を引かれた。そちらへ目を遣ると、水を思わせる青の髪が目に入る。


 そのまま、逆の方向へぐんぐん引っ張られていく。物凄い力だ。

 “白虎の守護”を得ている皓月は、かなり力が強い。だが、今、自分の腕を引く男は、軽々と皓月を引っ張っていく。


 随分引っ張られてきたな、と思ったところで、ぱっと手を離された。


 突然のことに、ぐらりと均衡を崩した皓月は、その人物の腕にまともに倒れ込んだ。


「おっと! 大変失礼致しました。皇太子妃殿下!!」


 皓月が姿勢を戻すのを手伝ってから、へらへらと笑ってそう言った人物。満々の笑みを浮かべながら、全く笑っていない目に、皓月は、確かに見覚えがあった。


「ちゃんとお目に掛かるのは初めてですねぇ。――私は水遜すい・そん、字を推恩すいおんと申します」


 則ち尚王、周貴妃の産んだ第二皇子である。

 先日、四妃の品茗会に招待してきた尚王妃の夫君だ。にへら~と笑う顔や、着崩した派手な衣服などは、全くもって、脱力を誘う。


(……孔雀みたいな男だな……)


 だが、脳裏で警鐘が鳴り続けているのは、その水晶玉のような目のせいだろう。

 形などは周貴妃に良く似ている。が、皇帝同様、読めない目だ。


 彼のことは、先日の昏礼の後の宴で見かけていた。



 周貴妃が皓月に琴を奏でるように言った昏礼の儀の席。耐えきれぬ、とばかりにダンッと音を立てて杯を置いたのは、母国からともにやってきた使臣の一人だった。怒りを漲らせて立ち上がり、「祝いの席だと思って大人しくしておれば。我が国の皇子殿下こうしでんかに先程から、無礼な――」と、佩剣していれば抜きそうな程の剣幕であった。


「――遅れてしまいまして申し訳ございません」


 そんな一触即発の空気に、ゆったりとした声で割って入ったのがこの男だ。


「今頃来るとは――一体何をしていたのですか、推恩」

「申し訳ございません、母上。遅れたお詫びに、皇太子妃の代わりにわたくしが一曲献じましょう」


 そう言って、彼は早速楽師達に琴を持ってくるように指示を出した。

「皇子がそんなことをする必要はありません!」

「そうですか? お行儀良く席に座ってただ見ているより、やるほうが余程楽しいのですがね」


 などと言って、飄々と笑っていた。



 結局、第二皇子の申し出を取り下げた貴妃は、それ以上皓月に促すことも出来ず、その場は終いとなった。妙なところでの登場だったが、結果としては直接断りの言葉を言わずに済んだのは尚王のお陰といっていいだろう。礼を言うべきではあろうが、……何だか素直に礼を言わせない雰囲気がある。周貴妃は、皇太子ではなく、自分が産んだこの皇子を皇位に即けたいのであろう。空回りしているようだが。


 そういえばさっきの――男の方は「盈忈」とか呼ばれていなかったか。思えば、あの甘ったるい声は、先日会った尚王妃の声にそっくりだった気がする。そう、つまり。目の前の尚王の……。


(第三皇子と第二皇子の妃は人目を忍ぶ仲だとは知っていたが……)


 先程のは、自分の妃と弟皇子の不倫の現場だということを、尚王が分かっていない筈がない。が、へらへら笑う尚王は、怒りを覚えているような様子はない。あばくつもりもないようだ。事前の調べ通り、二人の仲について、尚王本人は何処吹く風、ということなのだろう。母の周貴妃の方がお冠だ、と。


「いやあ、いい位置に入りました! 東宮の方がこちらにいらっしゃるのは珍しいですね」


 鳩尾をさすりながら言う。


「命が惜しかったら、東宮からは出ない方が宜しいですよ。……皇太子殿下の様に」

「ご忠告、痛み入ります。――尚王殿下」


 相手にするのも面倒だった皓月は、それだけ言って踵を返そうとした。すでに、落ち着いて花など見ている気分では無くなっていた。そんな皓月に、笑みを深めた尚王は言葉を続けた。


「そういえば。最近、東宮で昼過ぎに琴を弾いていらっしゃるのは、もしかして皇太子妃殿下ですか?」

「? ……そうですが」

「ああああああ! やはり!」


 突然前のめりになって肩をぐわしっ、と掴まれ、皓月は思わず引いた。


「あの素晴らしい琴は、皇太子妃殿下でいらっしゃったのですね!! いやあ、噂には伺っておりましたが、あれほどとは。あ、嫂子義姉上とお呼びしても?」


 勢いに圧され、曖昧に頷く。なんだか、先程までとは、熱が違う。


「先日奏でていたのは颱の楽ですか? 颱の楽は淫声品がない、と浩で奏されることはありませんが。下らぬ事です。どうせ例の権威主義の偏見でしょう。私は以前から颱楽に興味があったのです。某子は◎楽を〓☆◎んで三月■▽◎×といいますが、まさに人ならざる◎▽〓☆鬼神に▽〓☆至るまで尽く感動せしめる」


 口調もどんどん速くなっていき、何を言っているのか、分からない。


「え? 尚王殿下、よく聞こえな……」


 言うも、皓月の声など届いていないのだろう。尚王は止まらない。

 その後、皓月は延々と、何を言っているか分からない尚王の音楽談義に付き合わされたのだった。

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