第三十

「颱にこのような言葉があります。『金樽の美酒はどんな人間とでも飲んで大いに楽しむ事ができる。しかし、一椀の茶湯はともに飲む人を選ぶ』――と」

「含蓄のある言葉ですね。それでは、臣は殿下の御眼に適ったということでしょうか」

「巫澂は、浩におけるわたくしの師傅ししょうですから。颱の――わたくしの師は、大層なお茶好きだったので、よく茶卓を囲んだものです」


 言って、頬にかかる風の感触を楽しむようにほうと息をついた皓月の横顔を見ていた巫澂が杯を置いた。


「光栄です。――皇太子妃殿下は、まこと、風を好んでいらっしゃるのですね」

「『雲は龍に従い、風は虎に従う』――風は、白虎のともがらでございますゆえ。颱人が風を好むように、浩人は雨を好むのでしょう。以前持ってきてくださった詩集にもありましたね。夜の闇の中に響く雨音を聴くのを詠った。あれは確か……」

何翼か・よくですね」

「ええ。若い頃の詩は硬さが目立ちますが、晩年の詩は、簡明な表現の中にはっとさせられるものが多いように思います」

「何翼の詩はどれも悲哀の色が濃く暗い、と余り評価されてはおりません。それには、彼の境遇が大いに関係しておりますが。皇太子妃殿下の仰る通り、言葉で本質を切り取るその言語感覚の鋭さには見るべきものがある――と、皇太子殿下はよく読まれておりますよ」

「皇太子、殿下が……?」


 巫徴の講義を受けてしばらく経つ。だが、皇太子自身の話を出してきたのは、これが初めてだった。皓月も敢えて訊いてみたことはない。どうせ教えてはくれないだろう。それにもし皓月が尋ねれば、巫澂を困らせることになるだろうとも。同じ理由から、皇太子の護衛である羽厳・羽騎兄弟にも尋ねなかった。


「ええ。皇太子殿下は暇さえ有れば読書をされていますが、一度読んだものを再読されることは滅多にありません。が、何翼の詩は時折読み返しているようです」

「もしや、そちらに積まれているのは」

「東宮所蔵のものは全て読んでしまわれたので、こちらは承命宮からお持ちしたものです」


 自分の宮殿の書房にあった量を思えば、東宮書房に収められた本とてそれなりだろう。まさか皇太子は、引きこもりというより、単なる書痴本の虫なのか。いやそれにしても限度があろう。そんなことを思いつつ、ここで巫徴が皇太子の話を出してきた意図を探るように巫徴を見つめる。が、彼はいつも通り、巫官らしい謎めいた微笑みを口元に浮かべるだけで、それ以上を読み取らせない。


「何翼の詩を好まれるのでしたら、梅石心ばい・せきしん江粛荘こう・しゅくそうの詩もお気に召すやもしれません」


 両者は颱の文人だが、さらりとした描写ながら、鋭く本質を突いてくる、切れ味のある詩風をしている。颱では皇太子である皓月が二人の詩を好み、皇太子宮にもよく招いていた。それ故、二人とも若いものの、名は知られていた。だが、浩では知られていないはずだ。

 政治的には緊張関係にあるものの、文化的には学ぶべきものも多いと、颱では浩籍も市場に多く出回っている。が、浩では颱籍は読む価値なしと考える者が多いため、余り仕入れないと聞いたことがある。


「宜しければ、こちらをどうぞ」


 皓月は刺繍道具の入った籠から一冊の本を取り出した。既に読破したものだが、休憩の時に読み返そうと思って一緒に持ってきていたのだ。巫澂の話から窺えるように、皇太子は随分な読書家らしい。そして、浩で余り評価されていない何翼の詩を評価するような人物だというのなら。同じように顧みられることの少ない颱の書物にも多少興味を示すかもしれない。


「ここ数年で名の出てきた若い文人達の詩を集めたものです。颱ではこういった書物も好まれるのです。若手の作ですから、未熟なものも多うございますが、先程の梅石心や江粛荘の詩も入っております」


 浩では選集の類は、主に若年層や初学者に向けての教本と認識されている。故にこういった書物は知識・見識を備えた読書人が読むには及ばないもの、邪道と言い切る者すらいる。


「主だった詩が一覧にできるのですね。成る程、合理的ですね」


 合理的、という言葉を浩人が颱人に向かって発するのは、大抵にして皮肉だが。巫澂の声音にはそういう屈折した響きはない。寧ろ、どこか楽しげな響きだ。


「すぐにお渡しして参りましょう。きっとお喜びになるでしょうから」


 頷くと、巫澂の肩越しに、官女がこちらに近づいてくるのが見えた、そろそろ戻る時間ということだ。礼をして別れた。


 玉泉宮へと足を進めながら、ふと気付く。

 

 思いの外、話し込んでしまった。

 それなのに今日もまた、“掬花きっか”について訊きそびれてしまった、と。

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