紀第八 花陰に睡り、茶香に酔い

第二十九

「――皇太子妃殿下。皇太子妃」


 巫澂の声がして、皓月は目を開いた。


 辟邪香のかおり。


 見れば、巫徴が皓月の前に膝を着いてこちらの様子を窺っていた。これほどまで近づかれていたのに、全く気配がしなかった。

 言葉を失って見返していると、再度、巫澂が唇を開く。


斯様かようなところでお眠りになられては、お風邪を召されますよ」


 やりかけの刺繍を放ってうたた寝をしていたのだった。

 いつものように水榭あずまやの上で琴を弾じた帰りだ。ちょうど良い木陰を見つけて、そこで風の声を聞きながらにおいぶくろに刺繍を施していた。


 颱の皇族が行う祭祀には、数十人がかりで刺繍をして、それを奉る儀式などもある。皓月も幼い時から相当仕込まれたものだが、ひたすらちまちまちくちくするこの作業が大の苦手だった。それでせめてとばかりに外の空気を吸いながらやろうと思ったのだ。


「風の音が心地良くて――」


 木々に咲く甘い花の香りが、高く薫っている。もしかしたら、その花の香に午睡を誘われたのかもしれない。

 が、一番は疲れだろう。


 ここのところ、皓月は、次に行う東宮での品茗会の準備に余念が無い。


 この刺繍も、品茗会の準備の一つである。土産として渡すものとして最も一般的なものらしい。官女達に任せてもよかったのだが、そうと知れたら何と言われるか。浩の女人の教養としてのそれは、颱での重要度とは比較にならない程高い。重要な祭祀で着る皇太子の衣裳など用意するのも妃の役目だという。引きこもりには不要だろうが、だからといって、しないわけにもいくまい。


 皦玲は、刺繍を好んでよくやっていた。彼女からもらった手巾は、皓月の手元に幾つもある。彼女の技倆うでまえに及ばねばならない。という訳で、浩への道中、荷香かこうから手ほどきを受けていた。更に、浩の官女達からも浩の刺繍を習い、練習を重ねた結果、彼女達の審美眼にも堪えうる程度にはなった。

 

 因みに、皇太子から、他王府の者を入れる許可については、雨霄に相談したところ、どうしたのかは知らないが、取ってきてくれた。制限付きだったが。

 内心、密かに許可が下りないことを祈っていたとは、言わない。


「巫澂、お茶はいかがですか。今の時期に合うお茶があるのです。ちょうど飲み頃ですよ」


 皓月は傍らに置いていた盆に載せられた小ぶりの茶壺を手に取り、慣れた手つきで玉杯へと茶を注ぐ。ちょうど今度の品茗会でも出そうと思っている茶だ。浩に来て初めての品茗会。失敗はできない。


 “品茗会”――それは、颱人にとっては、非常に大事な場である。

 

 単にお茶を飲んで会話を楽しむだけの場ではない。颱から共に連れてきた侍妾達を相手に、いわば身内で、気楽に開いている――あれは茶話会というものであって、品茗会ではない。


 文化を尊ぶ浩において、文学や書、絵画や舞楽など、その水準は概ね颱より数段上だと言われている。


 一面的にはそうだろう。だが、茶について言うならば、浩よりも颱の方が深化されていると言える。


 颱において、茶藝さげいは、香や舞楽同様、士族女性の必須教養の一つだ。皓月も、幼い頃から親しんできた。師の影響も大きいが。少なくとも、書や絵画、刺繍などよりはずっと力を入れて学んだ。


 及笄の年十五歳を迎え、大人の仲間入りをした颱の女子は、自身で品茗会を開くことが許される。


 人々を呼び集め、己の教養と資質を人々に示すのである。上手くこなすことができれば、良い縁談も得られるし、宮中で働くときにも、良い地位につける可能性が高まる。招待する側は勿論、される側も気が抜けない、重要な社交の場なのである。だから浩で最初、品茗会に誘われた時には身構えたものだ。


――あれは、ただ高価な茶を見せびらかすだけの会だった。何の含意も、面白みもない。おまけに皓月に出された茶はである。


 とはいえ、颱の品茗会を完全再現するつもりはない。颱の茶文化は伝えつつ、彼女達が楽しめるような工夫は必要だろう。その準備でただでさえ忙しいのに、この間御苑で出くわしてから、尚王に妙に懐かれたらしい。度々東宮にやってくるようになった。一人で楽を語っては盛り上がり、皓月に琴を弾くようにせがんでくる。正直、面倒だ。が、はっきりと断ることもできず、かなりの時間を浪費させられていた。


「……ありがとうございます」


 ひんやりと冷えた玉杯を受け取って、顔へかかる連珠を、白く長い――それでもしっかりとした男の指先がそっと払う。一瞬、その爪先が、真珠貝のように柔らかな光を反射させたような気がした。艶やかな光沢を放つ玉杯に唇を寄せる仕草に、気品と色香という、相反するものを感じて、妙にドキリとした。


「吹き抜ける風のように爽やかな香りの中に、繊細でまろやかな甘みを感じる、深い味わいですね。……こんなにお茶を美味に感じたのは、生まれて初めてです」


 しばらく余韻を味わっていた巫澂が言う。我に返った皓月は、気を取り直すように説明した。


「これは“清風灑修竹せいふうさいしゅうちく”という名のお茶です。茶壺に氷と茶葉を入れて時間をおき、溶けた氷のしずくの一滴一滴でじっくりと抽出するのです。こうすることで苦みや渋みが抑えられ、香りや甘み、旨みがしっかりと引き出され、正に甘露の如き味わいを呈するのです」

「清風灑修竹、――颱は竹が生える地域は多くないと伺いますが。確かに、清風が瑞々しい竹の青葉にそよぐ様を思わせますね」

「仰る通り、颱に竹の生える地域は多くありません。ただ、好んで画題に選ばれますので、姿は皆知っています。このお茶を飲んで、竹が風に吹かれてサラサラと音色を奏でる様を心に思い描いて楽しむのです」

「目の前にないからこそ、心に思い描く――自身が求める最も理想的な形を。……颱人に思索的な方が多い理由の一端が窺われるようです」


 皓月は小さく微笑んだ。――それは、自身の心と向き合うことに他ならない。


「浩人は目が良い分、己の見たものが全てだと思いがちです。見た目など、いくらでも偽れるのですが」


 物思うような声音の巫澂の言葉に、まさに見た目も名前も偽っている皓月は、ぎくりとした。


「そ、そうなのですね……」


 何か今、重要な事を聞いたような気がした。

 だが、動揺していた皓月は、自分の中に一瞬湧き上がったその感覚を、取りこぼしてしまった。


 兎にも角にも、気持ちを落ち着けようと、自然を装い、木々へと視線を向ける。

 すると、応ずるように、先程より涼しい風が吹き抜け、木々や竹を揺らした。

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