第二十四

 皓月の姿を見るや、口をパクパクさせて餌をせがむ御鯉様たちに餌をやるのも、日課のようなものになっていた。

 皇太子宮の官女達も、いつもにこやかにそれを見ているから、問題は無いのだろう。餌をやり終えた皓月は、池に作られた水榭あずまやに設えられた椅子に腰掛けて、巫徴に渡された書物を読みながら吹き抜ける風の心地よさを味わっていた。


「皇太子妃殿下、お茶をお取り替えしましょうか」

「そうね。そうして頂戴」

「畏まりました」


 茶器を一度下げようとした雨霄の横顔を見た時、違和感がして皓月は首を傾げた。


「雨霄。――痩せましたか? もしかして、体調が悪いのではない?」


 室内ではあまり分からなかったが、日の下で見ると、心なしか顔色が悪いようにも見える。尋ねられた雨霄は、一瞬びくりとしたが、すぐにいつもの静かな表情に戻った。


「お心遣いくださいまして、ありがとうございます。ただの暑気あたりですので、皇太子妃殿下がご心配になるようなことはございません」

「そう? ……それなら良いのだけれど……」


 釈然としないまま、皓月は一先ず頷く。


 取り替えられたお茶を飲んでいると、玉鱗閣へ続く廊を歩いて行く巫官に目が留まった。例の顔かたちの分かりにくい装束だが、歩き姿などから、巫澂だと思った。手には何やら、沢山の書状をもっている。


 ここ暫く、毎日この辺りを歩き回っているが、皇太子宮の区画を、護衛の衛士以外が歩いているのを見たのは初めてだった。無論、影達からの報告にあったように、皇太子が決裁した書類や、逆に未決の書類を運ぶ者がいるのは当然であろう。とすると、巫澂が出てきた、あの玉鱗閣の方に皇太子はいるのかもしれない。いずれにせよ、引きこもりもいい加減にしてくれと言いたい。大層身体に悪そうである。


 慎の話では、皇太子は、立太子礼すらすっぽかしたというのだから筋金入りである。一体どうやって切り抜けたのだろう。立太子礼すらそれでは、敵国の皇女との昏礼など、すっぽかしたところで問題にすらなるまい。


 そこまで聞いて、皓月はそれまで腹の奥でくすぶっていた怒りをやや緩めた。

 少なくとも、皇太子が皦玲を、則ち皓月を無視しているのは、皦玲だからだとか、颱の皇女だからとかいう理由ではなく、もっと別の理由によるものだと確信したからだ。

 

 その一方で、これほどに皇太子の出方を意識している自分に苛立った。所詮敵国同士。本気で夫婦として親しもうという気など端からない。この先情勢が変わって、いざその喉笛を掻き切ってやるその時に、迷いになってしまったら? 男女の事は、皓月にはよくわからない。皓月にとっては、国が第一だ。しかし、国よりも何よりも、を選ばせてしまうこともあるのだということを、皓月は目のあたりにした。


「――……」


 きっとこれは、元皇太子たる皓月の矜恃の問題だ。結局、皓月は浩の皇太子を、自分に対する者として見ている。同じ大国を背負う者として、興味がないとも言わない。だが、向こうはそうではない。向こうにとっては颱の一皇女に過ぎない。その事実に、何よりも苛立っているのかもしれなかった。


 姿の見えぬ皇太子。

 だが、その影は随所に垣間見える。巫徴を教育係として寄越したこともそうだし、東宮の官女達の対応もそうだろう。斟の儀でも。もっとも、波風を立てたくない皇太子の周りの者が、気を利かせただけなのかも知れない。だが、たとえそうだとしても、主が望まぬことを敢えてするとは思えない。

 いやしくも皇太子の名で行われている以上は、多少なりとも皇太子の意思を含むものと見て良かろう。


(ところで皇太子は、この同盟をどう捉えているのか……)


 余程の事情があるのだろうが、ここまで引きこもっているなど、皓月には絶対無理だ。颱では、自分の宮殿にすらじっとしていなかった。自ら各地に赴き、市井に交じって人々と言葉を交わすのが好きだった。そのついでに、盗賊なんかをとっ捕まえてみたり、官吏やくにんの不正を暴いてみたり、他国の状況を探ったり、などといったことは、皇太子のの一つに過ぎない。無論、座学も疎かにはしていなかったが。そうやって、自分の目や耳で得た人々の声や知識などが、皓月にとってはより大きな学びとなって、今の皓月を支えている。


(とにかくだ。放っておかれているのは癪だが、こちらはこちらで好きにさせてもらおう――)


 どう転ぶにしても、相手の出方をただ待っていてはどうにもならない。考えられる手を、こちらから打っていかねば。どう進むか、見定めるためにも、やはりどうにかして皇太子に会う必要はあろう。


「――霧のなかを歩むようなものね……」


 しかし、風は霧を払うものだ。必ず晴らしてみせよう。

 

 自分の向かうべき一先ずの落とし所を見つけたからだったろうか。それとも、風の心地よさに珍しくも雅情をくすぐられたからなのかもしれない。或いは、この東宮に夜毎響く笛の音が、心のどこかにずっと残っていたためか。


「誰か、琴を」


 昏礼の宴の際、周貴妃が言っていた通り、皦玲は、琴が得意だということになっている。そして、皓月も苦手では無い。人前で披露したことはないが、師には認められた腕前だ。

 

 程なく、颱から持ってきた愛用の琴が運ばれてきた。


 ――言葉や声は届かなくとも、音ならば、届くだろうか。


 だが、一体、何を届けようというのか――己の内なる声をたしかめるように、皓月が弾じたのは、古い歌だった。昊から伝わる、浩でも馴染み深い筈の。


 琴の発する一音一音が空気に融けて流れて往く。高く低く。強く弱く。


 不意に、目の前の池の鯉たちが、皓月の琴の音に応じるように、一斉に飛び跳ねた。それは、高みを目指し、登竜の門への険しい道を登っていくという伝承の一場面を彷彿とさせる光景だった。


 不思議な光景に、歓声が上がる中、皓月はこっそりと息を零した。


 昔から、皓月の演奏は、不思議と獣に好まれた。森で奏したときなど、頭の上に鳥が飛んできたし、鹿や兎、熊までやってきて聞いていたのに気付いた時には嘘かと思った。


 自分の身までが、ふわりと浮いて大気へと融けて行くような心地よさを感じながら、皓月はただ琴を弾じ続けた。

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