第二十五
幾重もの帳を巡らした室内に、朱の西日が僅かに差し込んでいた。
耳にふと届いた琴の音に、その人物は手を止めた。
僅かに衣擦れの音を立てて、白い衣が揺れる。屋内だというのに濃い藍色の、斗篷という袖の無い外套を肩に羽織り、斗篷に付いた帽を目深に被っている。その肩の部分には、一角五爪の龍紋が描かれていた。
「琴――…………
だが、高く低く、激しくも穏やかな――風を思わすその音は、彼が知るその人の音ではない。どこか胸に迫る、その音。
彼の傍に控えていた男が、帳を小さく押しのけて、ああ、と呟く。
「皇太子妃殿下のようですね」
妃が……、と感情をうかがえぬ声が短く呟く。
男の視線を辿れば、その先に、確かに白銀の髪の女人を水榭の上に見つけて、眩しげに目を細めた。僅かに鼻腔から脳の奥へと、艶やかな香りが過ったような気がした。
異国情緒に溢れたそれは、夜に白い大輪の花を咲かせるという、
彼女が往くところ、その香りが仄かに漂う。
香に馴染みのない浩人をして陶酔せしめる――“
先日の斟の儀では、彼女が司水として斟みあげてきた神水で霊木がこれまでに誰も見たことがないほどに活力を取り戻し、居合わせた大臣や巫官達を驚かせたという。
様々に人の耳目を驚かせる彼女を、宮廷人達は、敵国の姫と侮り、罵りながらも無視出来ないでいる。
国の守護神たる龍をあしらった金釵は、皇后と皇太子妃にのみ許されたもの。
現在、皇后不在の浩国に於いては、それを身に着けている者こそ即ち皇太子妃であるとすぐに分かる。
伏せられた瞳は儚げで奥ゆかしくも、その姿には、凜とした風情がある。ほっそりとした素手が、琴を爪弾く。
それは、彼もよく知る、昊から伝わる古歌だった。
宴の席で、或いは軍営の夜に。古今、貴賤を問わず誰しもが耳にし、口ずさんでは心を慰めてきた。よく耳に馴染んだ曲だ。だが、彼女の手から爪弾きだされるその音色は、どこか、新鮮な響きがあった。
なぜか。酷く胸に迫る――。
噂に違わず、名手と言って良い腕前だろう。
春風のように心を撫ぜて、そっと駆け抜けて行くような。かと思えば、
応じて、池の鯉が跳ね上がる。水しぶきが日の光を反射して、その眩しさに、思わず目を覆う。
だが、一瞬のその光景は、その
「――…………?」
「恐れながら、殿下の為に弾いていらっしゃるのでは」
黙り込んだ彼に頭を下げた男の動きに合わせ、玉が高らかに鳴る。
「……まさか……」
「返して差し上げては」
男の目は、彼の文机の上に置かれた笛子に注がれている。
「……余計な口を挟むな、巫澂」
彼は長い袖で笛子を覆い隠し、また黙々と筆を動かすのだった。
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