第五十八
* * *
夜。吹きすさぶ風が、誰かの泣き声のように聞こえて、皓月はギクリとした。
不安な気持ちのため、無意識にそのように風の音を聴いたのだろう。まさか、自分がそんなふうに思う日が来ようとは。
――――あああああああああああああ―――――
しかし、途切れずに響く音に、やがて、やはりこれは違う、と気付いた。
―――うっううううっ、うううっうっ――――
風などではない。
これは。紛れもなく誰かの――呻き声だ。
そう確信した皓月の耳に聞こえるその声が、一段と高くなった気がした。
「……誰か、居るのか?」
はっとして、気付く。少し前まで居たはずの、見張りの姿がない。途端、ぞくりと背筋が冷えた。
――――うっううっうう――――
姿なき声は、明け方になるまで止むことは無かった。
* * *
「あの妃、まだ生きておるのか。何をもたもたと。皇帝陛下を害そうとした者に何の慈悲をかける必要があろう。速やかに処刑なさい」
御寝の傍近く、周貴妃と宦官とが控えている。既に幾日と目覚めぬ皇帝の、かすかに呼吸する音が響いている。聞こえる筈もないのだが、それでも二人は、最大限、声を抑えて話す。
「しかし、貴妃様。皇太子妃殿下は、
「だが、時間を掛けて事が颱に知れたら知れたで、向こうが抗議してくるのではないの」
皇帝が倒れ、皇太子妃も捕らえた今が、忌々しい皇太子を失脚させる千載一遇の好機。皇太子側の手の者は少なく、まだ朝廷を掌握できていない。
対して、父である周宰相側の陣営は多い。甚大な問題が起これば、廃太子にも持ち込めよう。これを逃す手はない。ここで逃せば、今度はこちらが死ぬ。皇太子が自分たちを見逃す筈がないのだ。だから今、皇帝に崩御されては困る。もし死ぬのなら、皇太子を廃してからでなければ。
「ですから、急がねばなりません。皇太子殿下を失脚させた後、颱の皇女は解放なさるのが宜しいかと。皇太子殿下がいらっしゃらなければ、浩においては何の権限もないのですから」
あの生意気な颱の皇女を、ただ颱に返してやるのも面白くない。が、確かに浩と国力を並べる颱を徒に怒らせるのも得策ではない。
(しかし、いったい誰が皇上に毒を……)
好機とばかりに拘束させたものの、周貴妃は勿論、皇太子妃が本当に皇帝に毒を盛った、などとは思っていない。
かと言って、尚王な訳は無いし、皇太子とも考え難い。――すると、恭王だろうか。だが、恭王が皇帝を害したとして、他に皇太子も、尚王もいるのだ。恭王にとっての利がない。その上、恭王にそれ程の度胸があるとも思えなかった。ならばいっそ、颱に追いやられた
「こういう時こそ、遜が先頭に立って動くべきだというのに、――あの子は……っ」
結局のところ、信ずべきは己のみなのだ。人は、己の欲と利益の為にしか動かないのだから。
その、はずだ――。
柳眉を苦しげに顰める周貴妃・雅琴の脳裏に、銀の光が過る。
忌々しい颱の皇女の――髪が。
あの皇女の、銀の髪。
忘れたくても忘れられない、あの女を、彷彿とさせる。
思えば無意識に目はある一点に注がれる。
皇帝の御寝の更に奥、秘かに作られた一室への扉――かつて、一度として立ち入りを許されなかったそこに、雅琴は先日、初めて忍び込んだ。
そこに掛けられた、一つの絵。
描かれるは、黒い琵琶を携えた一人の女人。
見た瞬間、即座に雅琴はそれがだれか分かった。
分からない筈がなかった。
そしてそれは、氷雪の如き皇帝の心を、否応なしに、雅琴に突きつけた。
かつて、ただ一度だけ垣間見た、あの姿。
既に、二十年以上の歳月が経っているというのに。
皇帝の心に在るのは、――今も昔も、あの女、ただ一人だけなのだと。
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