紀第十六 炎中より出づるもの

第五十九

 今宵も響き始めた呻き声に、横になっていた皓月はまたか、と寝返りを打つ。


 幽閉されて数日、夜毎、泣き声のような、呻き声のような姿無き声がどこからともなく響いてきていた。

 その声が聞こえ始めると、獄卒達は恐れてか、皆姿を消してしまうのだった。

 

 良いのか、それで。


 囚われの身ながら、取り調べらしき取り調べもされない。いくらなんでも、大した取り調べもなく、このまま皓月の罪が確定して処刑、などということになったなら、流石に颱側も黙っていない筈なのだが。

 最低限の明かり取り用の格子窓があるだけの建物内は、昼でも暗く心寂しい雰囲気だが、夜になると一段と凄味を増す。黴臭いにおいに混ざって血臭が染みついているような気すらする。

 おまけにこの――声である。


 ――――ううっうっうっ…………


 ひたすら響く呻き声。最初こそ、ぞわぞわとしたそら恐ろしさを感じていたが、今はもう慣れてしまった。

 それでも、どうにも気が滅入る上、この上も無く鬱陶しい。長い期間、こんなところで過ごしていたら、気が狂う。間違いない。さっさと出るに限る。声をおそれた獄吏達の目の無いうちにと、皓月は色々な場所をせっせと探る。


 …………うっうっうっう…………


 かつて、師に聞いた話では、白虎の守護を持つ者の中には、自在に己の姿や形を変える事ができるものもいたという。それは一体、どのような感覚なのだろうとその時には思ったものだが。今もし、その力が使えれば、こんな牢屋などあっという間だろうな、などと埒もないことを考えたりもした。


 皓月にその力は無いし、そもそもここでは白虎の守護の力が使えない。せめて窓の外に出られれば、と窓の格子の大きさを確認してみるまでもなく、皓月では、骨折しても無理そうである。頑丈な造りの格子は、びくともしない。


「はっ――」


(“抜山虎女”が、聞いて呆れる)


 黒宮は、皇族及び重罪人のための監獄である。常人とは異なる膂力を有する皇族や、特に危険な囚人を捕らえておく為、強化された特別の監獄であった。さしもの皓月の力を以てしても、破ることが出来ないのも道理であった。


 口に出しては、決して言えない独白をして自嘲した皓月の背中に、また訴えるような、恨むような唸り声が突き刺さる。――急に、怒りが沸々と湧いてきた。


「全く。――毎夜毎夜、いい加減にしろ!! 言いたいことがあるのなら言うがいい。迷惑な!!」


 大喝した皓月の声が、四方の壁にぶち当たり、びりっとした激震が走る。肩を上下させて、皓月は苛立ちを何とか抑えようとした。


『―――うっううううううううう―――』


 直後、声が背後から聞こえてきた。まさか、とゆっくり振り返る。


 隅に、いつからそこにいたのか、老婆が一人、蹲って唸っていた。その体が半分透けて、背後の壁が見えている。


 この世ならざるもの――幽鬼か――と皓月は却って、妙に落ち着いてその老婆を見おろした。その前にしゃがみ込み、声を掛ける。


老大娘老婦人。何をそんなに嘆いて――」


 突如老婆が顔を上げて、皓月は僅かに目元を動かした。

 皺だらけの顔面には、あるはずの眼球が無く、黒々とした眼窩から血の涙をしとどに流しては床を濡らした。乾いた唇からは、やはり唸り声のような言葉が漏れるばかりだ。


『―――あああああ――――ううううっ』


「なにが、――!?」


 直後。雷に打たれたかのように、皓月の脳裏に強く打ち付ける、声が響いた。


“――不要のものを見、不要の口をきく舌など――”


 その、声。激昂した声音は、皓月が知るその人の今の様子からは想像し難い。

 

(だが……確かに……)


 白昼夢のような。項から全身へと駆け抜けていく、雷のような。形容しがたい感覚に、ただ眉をひそめる。


、以前にも……どこかで……)


「――まさか、……そなたの目と舌を奪ったのは……皇帝陛下だと……?」

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